サンバージーの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
「マラーター王国」の記事における「サンバージーの戦い」の解説
1680年4月3日、王国の創始者シヴァージーは死亡し、死後における混乱ののち、息子のサンバージーが王位を継承した。 一方、1681年7月、シヴァージーの死を好機と見たアウラングゼーブはマラーター王国との戦争を開始するため大挙南下し、1682年にはアウランガーバードの軍営に入った(デカン戦争)。 だが、マラーターとの戦いはなかなか決着がつかず、アウラングゼーブはわずか命脈を保っていた周辺国へと標的を変えた。ムガル帝国は包囲戦の末、1686年にビジャープル王国を、1687年にゴールコンダ王国を滅ぼした。 アウラングゼーブがビジャープル王国やゴールコンダ王国と戦っている間、サンバージーは南インドのマイソール王国と戦っていた。だが、結果的にその君主チッカ・デーヴァ・ラージャはムガル帝国に援軍を求め、両者を結びつかせてしまった。 そして、1689年2月、アウラングゼーブはサンバージーをサンガメーシュワルで捕えることに成功した。サンバージーは拷問の末、3月に処刑された。
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