サイ・ヤングとホーナス・ワグナー
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「1903年のメジャーリーグベースボール」の記事における「サイ・ヤングとホーナス・ワグナー」の解説
その後100年以上の時を刻んでいくワールドシリーズだが、その記念となる第1戦1回表の先頭打者への第1球を投げたのはサイ・ヤングであった。この当時は36歳になっていたが、この年28勝を挙げ、3年連続最多勝で、デビュー以来376勝の勝ち星を上げていた。1890年からスタートした投手生活で、これほど緊張感に満ちた試合に投げた経験は無かった。1901年からこの2年間にナショナルリーグから新興のアメリカンリーグに移った選手は111人にのぼった。サイ・ヤングもその一人であり、ボストン・アメリカンズの監督兼三塁手のジミー・コリンズも転向組であった。高給に誘われたことも理由だが、逆にこの年に打率.355で首位打者を獲得したピッツバーグ・パイレーツのホーナス・ワグナーは年俸5000ドルで移れば2万ドルは確実と言われながら動かなかった。この第1戦で初回にヤングは集中打を浴びていきなり4点を奪われパイレーツが先勝し、第2戦はボストンのビル・ディニーン投手が完封勝ち、しかし第3戦・第4戦とピッツバーグが連勝し3勝1敗としたが、第5戦でヤングが初勝利を挙げてからピッツバーグに故障者が続出し流れはボストンへ傾いた。第6戦ディニーン、第7戦ヤング、第8戦ディニーンで一気に4連勝して5勝3敗でボストン・アメリカンズの優勝で幕を閉じた。ワグナーはこのシリーズ27打数6安打で3試合無安打で不調であった。 第1回ワールドシリーズは、8試合で10万人を超える観客を集め、約10万ドルの収入で5万5500ドルの純益を計上し出場選手にはそれぞれ1000ドルを超える分配金が手渡されて成功裏に終わった。この各選手への分配金が1000ドルであったことは翌年のジョン・マグローのニューヨーク・ジャイアンツが出場拒否した際に選手側から不満が続出することとなった。
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