ゴング時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 14:35 UTC 版)
ゴング時代は、ゴングが全日本がスタン・ハンセン引き抜きをスクープし、ハンセンとブルーザー・ブロディの2ショット写真を別冊ゴング1982年1月号に掲載したところ、「外人レスラー引き抜きに暗躍する一部マスコミ」という記事を掲載した『月刊プロレス』1982年2月号を見た坂口征二が激怒して小佐野を呼び出し、小佐野を怒鳴りつけたことがある(実際の2ショット写真はニューオーリンズで撮影しており、坂口は名古屋で撮影していたものと勘違いしていた。その後小佐野が証拠となるポジフィルムを見せると約束し、竹内宏介が坂口にポジフィルムを見せている)。 その後は、天龍源一郎の番記者として天龍に関する数々の記事を手がけた。1985年に発生した阿修羅・原による一連の長州力襲撃や天龍に対する挑発では、小佐野は原から連絡先をもらった上で、原が都内で行っていた秘密特訓をスクープした。1990年4月、天龍が全日本を退団するという話を誰よりも早く知ったプロレス記者は小佐野である。小佐野はその後のSWSなどの動きを把握しないまま記事を書き、4月25日発行のゴングの表紙に小佐野が伝え聞いた「ジャンボに負けたら辞めるよ」の文字が掲載された。 『週刊プロレス』編集長ターザン山本は、天龍が小佐野を使ってゴングに情報をリークしたものだと決めつけ、ゴングやSWSへのバッシングを開始した。小佐野は後年(2008年)週プロのインタビューで、天龍の退団のことは結果的にジャイアント馬場と天龍が話し合いをする前日に本が発行されることになり双方に迷惑をかけてしまったと振り返った。 1995年、週刊プロレスが東京ドームにて「夢の架け橋」を主催者として開催。ゴングは、「夢の架け橋」に賛同しなかったWARが同日に開催した、目と鼻の先の後楽園ホールでの大会を、小佐野と天龍との関係から後援するような状態になり、これを期に小佐野率いるゴングは、対週プロ(対山本)の姿勢を強めた。しかし翌1996年、山本が新日本プロレスなどから取材拒否を受けて週プロを引責辞任したことで、部数を落とした週プロを追い抜きトコロテン式にプロレス雑誌売り上げトップになったことについては「同じ土俵で勝負したかった」と語り不本意な出来事だったとしている。
※この「ゴング時代」の解説は、「小佐野景浩」の解説の一部です。
「ゴング時代」を含む「小佐野景浩」の記事については、「小佐野景浩」の概要を参照ください。
- ゴング時代のページへのリンク