コーチーズの死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 07:04 UTC 版)
1872年、合衆国のユリシーズ・グラント大統領は、アパッチとの和平協定のため、南北戦争に参加した隻腕の将軍オリバー・O・ハワードをアパッチ族の領土に派遣した。ハワードはジェフォーズに案内されてコーチーズと面会した。11日間に及ぶ和平協定の末、チリカウアとドラグーン山地にまたがる先祖の地を、白人の侵入の許されないチリカウア族の指定保留地とし、コーチーズの強い要望で保留地監督官にはジェフォーズが任官されることで和平は成立した。コーチーズはこのとき、こう言ったとされている。 「白人とインディアンは同じ水を飲み、同じパンを食べ、仲良くしなければならない」 1874年、コーチーズは病に倒れた。死期を悟ったコーチーズはジェフォーズを呼んで、次のようなやりとりをした。「兄弟よ、あなたは生きている私とまた会えると思うか?」「いいや、明日の夜にはあなたは死んでいるだろう。」「私もそう思う。明日、昼前ごろになるだろう。いつかまたあなたは私に会えると思うか?」「私にはわからない。あなたはどう思う?」「親友というものはまたどこかで会えるものと私は信じている」 コーチーズは翌日、予言した時間に死んだ。51歳だった。この偉大な戦士の死後、2年間は平和な時代が過ぎた。しかしやがて、保留地定住を拒否したジェロニモたちの抵抗戦が、ジェフォーズを悩ませることとなった。メキシコと合衆国双方から抗議を受け、ジェフォーズはつらい立場となった。ジェロニモはおそらく当時のアパッチ族の中でも最もよく知られた戦士だった。ジェロニモはチリカウア・アパッチ族の戦士であり、その逸話はアパッチ族の戦いのなかでも典型的なものである。
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