コンクールとの関わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 02:58 UTC 版)
「ジャン=マルク・ルイサダ」の記事における「コンクールとの関わり」の解説
以後、ソリストとして独り立ちするため、コンクールに挑戦する日々が続く。1983年(出典によっては1980年)にはイタリアのミラノ、スカラ座で開かれた若手ピアニストのためのディーノ・チアーニ記念コンクールで2等賞を受賞した。おおむね5年ごとにワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクールには、1980年(第10回)と1985年(第11回)の2回、挑戦している。22歳で挑んだ1980年のコンクールは不本意な成績で終わった。ルイサダ自身の言葉によると「そのときの話はしないで。もう忘れたい、おぞましい記憶なんだから(笑)」とのことである。当時はまじめな風貌で没個性的であり、演奏もまた没個性的であったというのが後の自己評価である。ルイサダはまず、外見から自分を変えることを始め、猛練習を積み重ねた。1985年のショパン・コンクールでは5位に入賞した。前出のディーノ・チアーニ記念コンクール2等賞のピアニストとしては不遇な結果とされるが、ルイサダ自身はショパン・コンクールの結果が奇妙なことに気付き、後にはコンクールそのものに疑問を呈している。ルイサダが指摘する当時のショパン・コンクールの問題点は審査員に、現役で活躍するコンサート・ピアニストが少なすぎることである。ルイサダはこのことを、1956年のエリザベート王妃国際音楽コンクールの審査員を引き合いに出して説明している。
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