コルレオーネ派VSパレルモ派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 20:11 UTC 版)
「ジュゼッペ・モレロ」の記事における「コルレオーネ派VSパレルモ派」の解説
1920年3月、減刑の請願が実り、出所した。一家のボスに復帰したが、テラノヴァ兄弟はカモッラとの戦争で縄張りを縮小し、ハーレム108丁目から116丁目に後退しており、組織の規模はモレロ投獄前に比べずっと小さくなっていた。モレロはシチリア系の他のグループと提携する道を模索し、一説に、ブルックリンのウィリアムズバーグにコロニーを築いていたグッドキラーズ(カステラマレ派、現ボナンノ一家)と提携した。モレロは彼らを利用してライバル数人を葬り、勢いを取り戻した。モレロの造反は、ルポの後継者として当時全米シンジケートのトップ(「ボスの中のボス」)にいたパレルモ派閥のサルヴァトーレ・ダキーラの怒りを買い、ダキーラの手下に命を狙われた。 モレロは潜伏し、一時シチリアに退避した。ダキーラは、配下のウンベルト・ヴァレンティを使ってモレロ一家の残党を追いまわした。1922年初め、シチリアでの味方集めに失敗してニューヨークに舞い戻ったモレロは、ダキーラと密輸の縄張りを争っていたジョー・マッセリアと同盟した。1922年5月、ヴィンセント・テラノヴァ、1923年にはその義兄弟のヴィンセント・サレミが犠牲になり、報復合戦と化した。1922年8月にヴァレンティを謀殺したマッセリアは、モレロ=テラノヴァのハーレム組織を組み入れてボスになった。モレロは名目上リーダーの地位を保ったが、実質アドバイザー(相談役)となった。 1923年末に、全米シンジケートでマフィア諸派閥により二者間の和平が取り持たれ、ダキーラを抗争の勝利者と認めて抗争は終わったが、ダキーラは抗争を止めたものの、モレロやマッセリアをシンジケートに復帰させることを拒否したとされる。抗争後、マンハッタンに住処を構えていることに身の危険を感じたモレロは、ニュージャージーのフォート・リーに引っ越した(チロ・テラノヴァはイーストハーレム116丁目に変わらず住み、一家のビジネス上の本部も変わらずハーレムだった)。
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