ケベック党の立ち上げ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/05 04:07 UTC 版)
「ルネ・レヴェック」の記事における「ケベック党の立ち上げ」の解説
自由党を離脱したレヴェックは主権連合運動(Mouvement Souveraineté-Association)を開始。より戦闘的な運動と違い直接行動や抗議行動を避け、普通の有権者にアピールする形をとった。最初の大会での主張はケベック内での少数派の英語政策であり、レヴェックは英語学校や英語の権利が守られるべきという彼の主張について大反対に直面することになった。 頑固な連邦主義者のピエール・トルドーがカナダ首相に任命されるにあたり、民族独立連合(RIN)に扇動された暴動が1968年のケベックの日(Saint-Jean-Baptiste Day)パレードの際に発生し、ケベック独立運動が一つに結びつくようになってきた。主権連合運動も他の分離主義者と合流し1968年にケベック党(Parti Québécois)が創設された。レヴェックの強い主張で、RINのメンバーは団体としてではなく個別にであれば入党を許された。 ケベック党は、1970年のケベック総選挙で25%の票を獲得し組閣出来れば、独立宣言への基盤が形成されると考えたが、実際には6議席にとどまり、レヴェックはモントリオールから党運営を継続し、ケベック・シティーの党運営部との連携をとることとした。 1973年のケベック総選挙では自由党が大勝し、特にレヴェックが議席を獲得できなかったことで、ケベック党内の緊張が高まった。議院運営委員長ロバート・バーンズとの確執は、レヴェックが党首の地位を失いかけるまでに至った。
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