ケベックの反撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/22 15:52 UTC 版)
「タイコンデロガの攻略」の記事における「ケベックの反撃」の解説
タイコンデロガとクラウン・ポイントの攻略、特にサンジャン砦の奇襲は、ケベックの住民を驚かせた。モントリオール駐屯部隊の隊長、ダドリー・テンプラー大佐は、5月19日、防御のため民兵に召集をかけ、近辺に住む先住民に、武装するよう依頼した。わずか50人のフランス系の地主と、小貴族がモントリオール、またはその周辺で民兵として育成され、サンジャンに派遣された。先住民は来なかった。テンプラーはまた、アメリカ独立運動に同情的な商人が、物資を南に送るのを阻止した。 カールトン総督は、退役軍人のハゼンから、5月20日のアーノルドの行動を知らされ、すぐさまモントリオールとトロワリビエールの駐屯部隊に、サンジャンを守るように命令し、ケベックの何部隊かもサンジャンに回された。他のケベックの駐屯部隊は、セントローレンス川に沿って、様々な地点に分けて派遣されており、西はオスェガチエまで駐屯していて、仮想敵の脅威から町を守っていた。 カールトンはモントリオールへ、防御の監督に行き、ケベックは副総督のエクトール・テオフィラス・ド・クラマシェにゆだねられた 。モントリオールへ発つ前に、カールトンは、ケベック司教のジャン=オリビエ・ブリアンを説得して、軍への召集を発することを、町の防御のために支持してほしいと言った。その召集は主に、モントリオールとトロワリビエール近辺で行われた。
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