ケベック、ニューヨーク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 14:06 UTC 版)
「ウィリアム王戦争」の記事における「ケベック、ニューヨーク」の解説
1689年の8月に、1500人のイロコイ族が、ヌーベルフランス総督デノンヴィユの侵略への報復として、ラシーヌのフランス系カナダ人の住民の集落を攻撃した。デノンヴィユに代わってヌーベルフランスの総督に就任した、ルイ・ド・ボード・ド・フロンテナックは、その後オノンダガのイロコイ族の集落を攻撃した。そしてヌーベルフランスとインディアン同盟はその後、1690年の始めに、ニューヨークのイングランド系住民の集落を襲撃した。これはシェネクタディの虐殺として、特に知られている。 詳細は「ケベックの戦い (1690年)」を参照 1690年、マサチューセッツによるヌーベルフランス侵略で、4月にポートロワイヤルを攻略したサー・ウィリアム・フィップスが、同年の9月にケベックに乗り込んだ。この時もフィップスの艦隊が出動したが、ヌーベルフランスの総督フロンテナックは、ニューイングランド側の戦略を察知していた。フロンテナックは兵力をケベックの防御に集中させ、フィップス軍の撃退に成功した。その後フランスはポートロワイヤルを奪回し、現地のインディアン部族と同盟を結ぶことになった。 イロコイ連邦は、イングランドとの同盟関係の弱さに悩まされた。1693年と1696年、フランスとインディアンの連合軍はイロコイ族の集落を荒らし、作物をめちゃめちゃにした。1697年の平和条約締結後、イロコイ族はイングランド系入植者から見捨てられ、1701年までヌーベルフランスと戦闘行為を共にした。その1701年、モントリオールでフランスとイロコイ族の和議が成立し、条約が結ばれた。
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