クオピオへ
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未亡人になったミンナは、1880年1月に第七子、リューリを産んだ後、同年3月に7人の子どもとともに、クオピオのカンッティラに戻った。そこではミンナの両親やきょうだいが住み、父親が繊維製品店を開いており、父親の死後は母親やきょうだいが経営を行っていたが、1881年の夏にミンナがその経営を引き継いだ。1884年ごろには、弟が経営していた雑貨店も引き継ぎ、ミンナは実業家として成功した。安定した収入を得るようになったミンナは、著作活動に打ち込むことができるようになった。 ミンナは、カンッティラでサロンを開催した。1880年代から1890年代にかけて、次のようなの文化人がサロンに参加した。 ハンナ・アスプ(フィンランド語版) - 作家 ヒルダ・アスプ(フィンランド語版) - 翻訳者 カッレ・アホ(フィンランド語版) - 劇作家 ユハニ・アホ - 小説家 J・H・エルッコ(フィンランド語版) - 劇作家 アクセリ・ガッレン=カッレラ - 画家 マッティ・クリッカ(フィンランド語版) - ジャーナリスト ジャン・シベリウス - 作曲家 アイノ・シベリウス - ジャン・シベリウスの妻 ヴェンニ・ソルダン=ブロフェルト(フィンランド語版) - 画家 K・A・タバストシェルナ(フィンランド語版) - 作家 ペッカ・ハロネン - 画家 ペッカ・ブロフェルト(フィンランド語版) - ジャーナリスト エミリ・ベルグボム(フィンランド語版) - 演出家 カールロ・ベルグボム(フィンランド語版) - 演出家 ヘイッキ・メリライネン(フィンランド語版) - 作家 アルヴィド・ヤルネフェルト(フィンランド語版) - 作家 アルマス・ヤルネフェルト - 作曲家 エーロ・ヤルネフェルト - 画家 エリサベト・ヤルネフェルト(フィンランド語版) - サロニスト カスペル・ヤルネフェルト(フィンランド語版) - 翻訳者 エルンスト・ランペン(フィンランド語版) - 作家 教師のエリサベト・ステニウス(フィンランド語版)や小学校校長のセルマ・バックルンド (Selma Backlund) の他に、リディア・ハックマン (Lydia Herckman) やエリサベト・イングマン (Elisabeth Ingman) などのクオピオの文化人もサロンに参加した。 1891年、ノルウェーの雑誌 “Samtiden” に自伝が掲載される(フィンランド語版ウィキソース:ミンナ・カントの自伝参照)。同年、画家のカールロ・ヴォリ(フィンランド語版)がミンナの肖像画を制作する。1897年、クオピオにおいて心臓発作のために53歳で死去する。ミンナは、亡くなるまでカンッティラに住んでいた。墓は、クオピオの要人墓地(英語版、フィンランド語版)の5番ブロックにある。
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