キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの誕生
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「凱旋門賞」の記事における「キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの誕生」の解説
1949年に行なわれた凱旋門賞の賞金の大幅な増加は思わぬところに影響を及ぼした。創設以来日程が競合して一流馬を奪い合っていたイギリスのキング・ジョージ6世ステークスは、凱旋門賞の賞金増を受けて撤退せざるを得なくなった。アスコット競馬場はキングジョージ6世ステークスを、夏に行われている1マイル半(約2400メートル)のクイーン・エリザベスステークスと統合することにした。 1951年は大英博覧会開催100周年にあたり、イギリスでは夏に大々的に英国祭(英語版)(フェスティヴァル・オブ・ブリテン)を行った。こうして1951年7月に、フェスティヴァル・オブ・ブリテン・ステークスが行なわれた。賞金は大幅に増えて、イギリス国内ではダービーに次ぐ高額賞金となった。この競走は翌年キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと改称し、以来、夏のヨーロッパを代表する国際大レースとして定着した。時期的にも競合しない高額国際競走の誕生は、フランスの主催者にも歓迎された。 凱旋門賞とキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスの両レースの制覇に最初に挑んだのはタンティエーム(Tantieme)で、1950年に凱旋門賞に勝ったタンティエームは翌1951年に第1回のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス(つまり、フェスティヴァル・オブ・ブリテン・ステークス)に挑んだ。以前に長距離遠征に失敗して体調を崩したことがあるタンティエーム陣営は、レース当日の早朝にタンティエームをフランスから現地へ直接空輸するという作戦をとったが、不運なことにその日は強風が吹いて飛行機は激しく揺れ、「身の毛もよだつ」「不快な旅」となってしまった。このため明らかにタンティエームは体調を落としており、スタートで後手を踏んだ上に最終コーナーで不利を受けて3着に敗れた。その後タンティエームはフランスに戻って復調し、記録的な大観衆となった66,840人の有料入場者の前で2度めの凱旋門賞を楽々と制して、フランス競馬史上最良の競走馬の1頭となった。
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