キャンベル卿・アーガイル伯爵とは? わかりやすく解説

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キャンベル卿・アーガイル伯爵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:18 UTC 版)

アーガイル公爵」の記事における「キャンベル卿・アーガイル伯爵」の解説

キャンベル家初めスコットランド貴族爵位与えられたのは、サー・コリン・キャンベルの曽孫にあたるダンカン・キャンベル(英語版)(生年不詳-1453年)が1445年キャンベル卿(Lord Campbell)に叙されたのが最初である。 キャンベル卿位を継承した孫の第2代キャンベルコリン・キャンベル英語版)(1433年-1493年)は、西部クランローン卿(英語版ステュアート家の娘イザベラ結婚し、それによってキャンベル家西部クラン最大クランとなった彼の代からキャンベル家の長は「マッカラン・モア」と呼ばれるようになった。彼は1457年スコットランド貴族アーガイル伯爵(Earl of Argyll)、1470年ローン卿(Lord Lorne)に叙されとともに中央政界活躍しスコットランド大法官英語版)やスコットランド法院長英語版)等を歴任した。また1488年には第5代アンガス伯(英語版アーチボルド・ダグラス英語版)ら他のスコットランド貴族とともにジェームズ3世廃位の軍を起こして同王を敗死追い込んでいる。 初代伯の曾孫である4代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル英語版)(1507年頃-1558年)は1557年に第4代モートン伯ジェイムズ・ダグラスとともにプロテスタント信仰を誓う「第一次信仰盟約The First Covenant, or The First Bond)」を締結しており、スコットランド内のイングランド政治家だった。 4代伯の曾孫8代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1607年-1661年)は1641年チャールズ1世よりスコットランド貴族アーガイル侯爵(Marquess of Argyll)に叙され1642年にはチャールズ1世のためにスコッツガーズ創設したが、清教徒革命イングランド内戦)では長老派としてチャールズ1世宗教政策反対してイングランド議会派軍に転じている。しかし国王処刑には反対し、1651年にはチャールズ2世スコットランド国王擁立した。それによってオリバー・クロムウェル率いイングランド共和国軍のスコットランド侵攻を招くと国王見限ってクロムウェル恭順したが、王政復古後1661年5月大逆罪で処刑された。 その長男の9代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1629年-1685年)は一貫して王党派として行動してクロムウェル投獄されていたため、王政復古後チャールズ2世から重用されたが、王弟ヨーク公ジェームズジェームズ2世)とは不仲だったため、チャールズ2世崩御後モンマスの反乱加担し反乱鎮圧後には大逆罪で処刑され、所領没収された。

※この「キャンベル卿・アーガイル伯爵」の解説は、「アーガイル公爵」の解説の一部です。
「キャンベル卿・アーガイル伯爵」を含む「アーガイル公爵」の記事については、「アーガイル公爵」の概要を参照ください。

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