キャンベル卿・アーガイル伯爵
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「アーガイル公爵」の記事における「キャンベル卿・アーガイル伯爵」の解説
キャンベル家に初めてスコットランド貴族爵位が与えられたのは、サー・コリン・キャンベルの曽孫にあたるダンカン・キャンベル(英語版)(生年不詳-1453年)が1445年にキャンベル卿(Lord Campbell)に叙されたのが最初である。 キャンベル卿位を継承した孫の第2代キャンベル卿コリン・キャンベル(英語版)(1433年-1493年)は、西部のクランのローン卿(英語版)ステュアート家の娘イザベラと結婚し、それによってキャンベル家は西部クラン最大のクランとなった。彼の代からキャンベル家の長は「マッカラン・モア」と呼ばれるようになった。彼は1457年にスコットランド貴族アーガイル伯爵(Earl of Argyll)、1470年にローン卿(Lord Lorne)に叙されるとともに、中央政界で活躍し、スコットランド大法官(英語版)やスコットランド法院長(英語版)等を歴任した。また1488年には第5代アンガス伯(英語版)アーチボルド・ダグラス(英語版)ら他のスコットランド貴族とともにジェームズ3世廃位の軍を起こして同王を敗死に追い込んでいる。 初代伯の曾孫である4代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(英語版)(1507年頃-1558年)は1557年に第4代モートン伯ジェイムズ・ダグラスとともにプロテスタント信仰を誓う「第一次信仰盟約(The First Covenant, or The First Bond)」を締結しており、スコットランド内の親イングランド派政治家だった。 4代伯の曾孫8代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1607年-1661年)は1641年にチャールズ1世よりスコットランド貴族アーガイル侯爵(Marquess of Argyll)に叙され、1642年にはチャールズ1世のためにスコッツガーズを創設したが、清教徒革命(イングランド内戦)では長老派としてチャールズ1世の宗教政策に反対してイングランド議会派軍に転じている。しかし国王の処刑には反対し、1651年にはチャールズ2世をスコットランド国王に擁立した。それによってオリバー・クロムウェル率いるイングランド共和国軍のスコットランド侵攻を招くと国王を見限ってクロムウェルに恭順したが、王政復古後の1661年5月に大逆罪で処刑された。 その長男の9代アーガイル伯アーチボルド・キャンベル(1629年-1685年)は一貫して王党派として行動してクロムウェルに投獄されていたため、王政復古後もチャールズ2世から重用されたが、王弟ヨーク公ジェームズ(ジェームズ2世)とは不仲だったため、チャールズ2世崩御後にモンマスの反乱に加担し、反乱鎮圧後には大逆罪で処刑され、所領も没収された。
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