キャンベル=バナマン内閣大蔵大臣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 01:02 UTC 版)
「ハーバート・ヘンリー・アスキス」の記事における「キャンベル=バナマン内閣大蔵大臣」の解説
1905年12月4日のバルフォアの辞職で自由党政権が発足する見通しとなると、アスキスは自分が首相の座を就こうと、キャンベル=バナマンに貴族院議員になることを勧めたが、彼はこれを撥ね退けている。 キャンベル=バナマンは自分が首相に就任する野心は捨てなかったものの、自由帝国主義派にも重要閣僚ポストを与えることで党内一致を図ろうとした。アスキスには大蔵大臣、ホールデンには戦争大臣、グレイには外務大臣の地位をそれぞれ提示した。アスキスも党内融和を重んじていたので、ホールデンとグレイを説得して3人そろってキャンベル=バナマン内閣に入閣することにした。 首相としてのキャンベル=バナマンは「邪悪な帝国主義に反対するが、常識に基づく帝国主義には賛成する」という折衷的立場をとり、実際には「大英帝国本国民が帝国を支配するための資質を育成する」と称して帝国の拡大よりも社会改良政策に力を入れた。このキャンベル=バナマンの方針によりアスキス、グレイ、ホールデンら自由帝国主義派とロイド・ジョージら急進派をともに内閣に取り込み続けることができたのである。 1906年の解散総選挙では、チェンバレンの保護貿易論の是非、膨大な数の中国人労働者が清から英領南アフリカに輸出されてくることへの是非が主な争点となった。自由党はその両方に反対して選挙戦を有利に展開し、377議席を獲得するという地すべり的大勝利を得た。
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