ガンデンポタンと清朝との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 06:32 UTC 版)
「中華人民共和国によるチベット併合」の記事における「ガンデンポタンと清朝との関係」の解説
1642年のダライラマ政権の発足以来、ダライラマ政権の3種の首脳であるダライラマ、チベット=ハン、デシーの地位の認定は、チベットの内部で決定されており、清朝による関与は、これらの地位についた有力人物の地位を追認する形で称号や印章をおくるにとどまっていた。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}清朝は、1706年-20年の「ダライラマ五世の後継者をめぐるグシ・ハン一族の内紛」、1727年-28年の「ウー・ツァンの内戦」、1750年-51年の「ダライバートルの乱」、1788 年-89年,1791年-92年の 「清・ネパール戦争」など、チベットで内乱や外患が生ずるごとに介入してそのプレゼンスを強めていった。しかし19世紀にはいると、一転してチベットを支援する余裕をなくし、1840年のドーグラー戦争、1855年−56年のチベット・ネパール戦争は、チベット単独でカシミールやネパールなどの外敵と戦って不利な講和を余儀なくされ、清朝皇帝の「転輪聖王たる文殊皇帝」としての権威は失墜していった[要出典]。 1903年-04年の、英領インド軍を率いたフランシス・ヤングハズバンドの武装使節団の侵攻の際、当時のダライラマ十三世は北京におもむいて清朝に支援を求めたが思うような助力は得られず、逆に趙爾豊率いる蜀軍の侵攻、ラサ制圧(1905-1910)をみるにいたり、チベットは従来清朝との間に存在した「チョユンの関係(施主と福田の関係)」は完全に終焉を迎えたと判断し、「清朝からの独立」を模索するようになる[要出典]。
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