ガラマンテス人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 21:17 UTC 版)
ヘロドトスや、のちの古代ローマの学者プリニウスやプトレマイオスは、北アフリカにガラマンテス人(英語版)と呼ばれた民族がいたことを記録している。ローマ帝国はカルタゴを滅ぼしたのちに北アフリカに進出し、ガラマンテス人はローマと対立した。3世紀には両者は和解し、トリポリからキャラバンのルートが3本あり交易が行われた。ローマ人の商人や技術者がガラマンテス人の土地に住み、ローマは陶器やガラス器を輸出し、ガラマンテス人は象牙、奴隷、獣皮、Carburcliと呼ばれる紅玉に似た宝石を輸出した。この中でCarburcliが特にガラマンテス産の商品だとされており、非常に高価で小さな石でも40スティタスの値段だった。ガラマンテス人は当時のサハラ砂漠の交易に関わっていたと推測されるが、ニジェール川までは到達せず、フェザーンからホガール山地までを範囲としていた。ガラマンテス人とローマ帝国の交易は3世紀半ばに最盛期となり、4世紀以降はローマの北アフリカ支配の弱体化によって減少した。ラクダが家畜として北アフリカで普及し始めるのも4世紀頃とされる。 6世紀にはビザンツ帝国が北アフリカに進出し、ベルベル人と対立した。同世紀には、ガラマンテス人とビザンツ帝国との交易も行われた。ビザンツの北アフリカ支配は639年のアラブ人の侵略で終わり、フェザンは略奪されて交易も途絶した。数十年後に、「スーダンの金」をめぐって交易が再開されることになる。ガラマンテス人は、トゥアレグ族の祖先だと推定されている。
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