カンナビヒとモーツァルト
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「クリスティアン・カンナビヒ」の記事における「カンナビヒとモーツァルト」の解説
カンナビヒとモーツァルトは20年程の期間の間に、数回にわたって出会っている。2回目は1777年から1778年の冬から春にかけての時期であり、この時モーツァルトはマンハイムとパリへの不運な演奏旅行の途上にあった。母に伴われたモーツァルトは富と名声、中でもドイツの多くの諸侯の下での働き口を見つけるべくザルツブルクを出発したのであった。そうした母と息子が、18世紀後半のヨーロッパの中で最高の技量と名声を持つ管弦楽団が存在するマンハイムで、予定よりも長く留まることになったのは不思議ではない。優れた音楽家と才能ある作曲家(多くはボヘミア出身だった)、厳しく情け容赦のない訓練、そしてプファルツ選帝侯領選帝侯から拠出される潤沢な資金により、かつては一介の王室チャペルに過ぎなかった楽団は力強くしなやかなアンサンブルへと変貌を遂げていた。女性たちはマンハイムの奏者が唸るようなクレッシェンドを解き放つと気を失ったと伝えられる。しかし、これはこの地で生み出された多くの管弦楽法のひとつに過ぎない。 モーツァルトもこの管弦楽団に対して幾度となく賛辞を述べている。以下に、彼が父に宛てた書簡にはこう記されている。 「私は父上にこの地の音楽についてお話しせねばなりません。諸聖人の祝日だった土曜日、私は主要なミサに参列しました。オーケストラは非常に優れており、大規模でした。両翼の10から11のヴァイオリン、4つのヴィオラ、2つのオーボエ、2つのフルート、2つのクラリネット、2つのホルン、4つのチェロ、4つのファゴット、そして4つのコントラバスとトランペットに加えてティンパニです。これで音楽がよくないわけがありません・・・。」
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