カルタゴ軍第三回遠征(紀元前406年-紀元前405年):ハンニバル1世・ヒミルコ2世対ディオニュシオス1世
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他方、シケリアで最も強大な都市国家であるシュラクサイとアクラガスはカルタゴに対する積極策をとらなかった。しかしこの政策に反対したシュラクサイの元将軍ヘルモクラテスは、私的に小さな軍を組織してセリヌスのアクロポリスを再建し、そこを根拠地としてカルタゴ領に襲撃を行った。その後ヘルモクラテスはモティアとパノルムスに勝利したが、シュラクサイに戻ろうとして阻止され戦死した。この活動の報復として、紀元前406年にハンニバル・マゴは三度目のシケリア遠征を実施した。 しかしながら、この遠征ではカルタゴ軍は激しい抵抗に会い、また不運も重なった。アクラガス包囲戦において、カルタゴ軍にはペストが蔓延し、ハンニバル・マゴ自身も病死してしまった。後任となったヒミルコ2世はアクラガスを占領・破壊した。続いてゲラを占領(ゲラの戦い)、カマリナを破壊し(カマリナ略奪)、シュラクサイの新しい僭主であるディオニュシオス1世に連続して勝利した。しかし、伝染病が再びカルタゴ軍を襲い、ヒミルコはカルタゴ占領地を引き続きカルタゴの支配下に置くという条件の下、ディオニュシオスと講和した。この時点がシケリアにおけるカルタゴ勢力の絶頂期であり、シケリアのおよそ2/3がカルタゴの支配化下におかれた。
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