カルタゴ軍の戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 06:14 UTC 版)
「シュラクサイ包囲戦 (紀元前397年)」の記事における「カルタゴ軍の戦略」の解説
カルタゴ軍は、過去にもギリシア都市に対する攻城戦を成功させたことがあった。紀元前409年には、攻城兵器を用いてセリヌス(現在のマリネッラ・ディ・セリヌンテ)を陥落させており、同年にはヒメラ(現在のテルミニ・イメレーゼの東12キロメートル)も落している。紀元前406年にはアクラガスの両側に野営地をおいて包囲戦を実施した。シュラクサイの城壁の長さを考えると、それの外側に包囲壁を作ることは現実的ではなかった。ヒミルコは兵士を集中させていたが、シュラクサイを「挟撃」するように別の野営地を作るだけの人的資源がなかったのかも知れず、また野営地を分けるとシュラクサイ軍、あるいは救援軍の奇襲の対象になる可能性もあった。南側の城壁に攻撃をかけた場合、エウリュアロス要塞からの側面攻撃を受ける可能性がある。またエピポライ台地の城壁の高さを考慮すると、攻城用傾斜路無しに突撃することも不可能であった。 ヒミルコは紀元前415年にアテナイのニキアス(en)が用いた戦略を再び採用した。すなわち、包囲を継続し、シュラクサイ内部にカルタゴ有利な政治的な動きが起こるのを待った。ヒミルコは準備が完了した後に冬営地に向かった。ただ、海上輸送は完全には遮断できず、カルタゴ海軍が妨害しないかぎり、ラクシウムから船が出入りできた。
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