カピタン・モール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 02:47 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動カピタン・モール(pt:Capitão-mor)は、
- 16世紀から19世紀にかけてのポルトガルに存在した民兵的組織オルデナンサス(pt:ordenanças)の指揮官。他にポルトガル海軍の指揮官の階級名としても用いられた。
- ポルトガル海上帝国の在外領土の管理者の役職名。重要度で劣る(総督や副王を置くほどではない)土地に配された。
- 大航海時代にポルトガルからインド(ゴア)に、あるいはインドからアジア各地に派遣された船隊の司令官のこと。本稿で扱う。
概略
カピタン・モールはポルトガル王による任命で1回の航海ごとに更任されることとなっており、在職中は管轄する船隊の一切の指揮、通商行為の全権を一任され、場合によっては派遣先に駐在する在留ポルトガル人や船舶に対する命令権や派遣先の政府に対する軍事・外交権限を与えられる場合があった。その権限とそれがもたらす名誉と経済的利益から、カピタン・モールには国家の功労者や王の側近が任じられることが多かった。また、ポルトガルのカピタン・モールは、貿易と並行して植民地拡大のための軍事指揮官としての要素も併せ持っていたために軍務経験が必要な要件と考えられていた。
1557年にポルトガルがマカオの居留権を得ると(ポルトガル領マカオ)、同地にカピタン・モールが派遣されて行政長官を兼ねた。だが、船隊の司令官として日本など外洋への航海に出ることが多いカピタン・モールがマカオの市政を掌握することは困難であり、住民の反感から1585年にマカオに都市としての特許が与えられて、一定の住民自治が認められるようになり、1623年にはカピタン・モールとマカオの行政から切り離された。
なお、後発のオランダやイングランドは「会社」方式を採用して、船隊の司令官は原則として非軍人の「商務員」(koopman)が務めた。従って、江戸時代に長崎出島にいたオランダ商館長(カピタン)も原則として軍人ではない東インド会社の社員などが任命されている。
参考文献
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- 岡美穂子 『商人と宣教師 - 南蛮貿易の世界』 東京大学出版会、2010年。ISBN 9784130262248。
- 川辺信雄、尾形勇「「カピタン・モール制」」『歴史学事典 1 交換と消費』弘文堂、1994年(日本語)。 ISBN 4335210310。
関連項目
カピタン・モール
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「ポルトガル領黄金海岸」の記事における「カピタン・モール」の解説
黄金海岸は小規模な植民地だったため、総督や副王でなくカピタン・モールが治めた。 初代ディオゴ・デ・アザンブージャ(英語版)はジョアン2世の王命を受けて艦隊を率いて黄金海岸に赴き、サン・ジョルジュ砦を築くと、艦隊を本国に帰還させて自身は指揮官として現地に留まった。
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