カニング派時代
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「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「カニング派時代」の解説
パーマストン卿はパーシヴァル首相暗殺後、特定の党派に属していなかったが、1828年初頭までには「旧態依然としたトーリーと革新的すぎるホイッグの中間を行く」カニング派(英語版)の領袖の一人と自他共に認められるようになっていた。 結局パーマストン卿は、カトリック解放問題や選挙法改正問題をめぐってウェリントン公爵や内務大臣サー・ロバート・ピール準男爵と対立を深め、1828年5月28日には戦時大臣を辞して政権から離れた。同じころ、他のカニング派閣僚の陸軍植民地相ウィリアム・ハスキソン、外相ダドリー伯爵(英語版)、アイルランド担当相ウィリアム・ラム(後のメルバーン子爵)、商務相チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)(英語版)らも辞職している。 政界に入って以来、はじめて野党生活に入ったパーマストン卿だが、カニング派は実務経験豊富な人材の宝庫としてトーリー党からもホイッグ党からも注目されていた。とりわけパーマストン卿はカニング派の中では外交の専門家と目されており、ホイッグ党左派のホランド男爵にその能力を高く評価されていた。また当時ホイッグ党は党内の主だった派閥の領袖が貴族院に集中していたため、庶民院議員のパーマストン卿を迎え入れたいという声が強かった。 当時カニング派の最有力人物はハスキソンだったが、パーマストン卿はウェリントン公爵内閣外務大臣アバディーン伯爵の対ギリシャ外交への批判で存在感を一層高め、1829年夏までには派閥内でハスキソンに次ぐ地位を確立していた。 ハスキソンが1830年9月25日に鉄道事故で死亡すると、ホイッグ党首グレイ伯爵はメルバーン子爵とパーマストン卿に連絡をとり、ホイッグ党とカニング派の連携を確認した。さらにウェリントン公爵に反発して政権を離れたウルトラ・トーリーとも協力して、11月15日にウェリントン公爵内閣を議会で敗北させて総辞職に追い込んだ。およそ半世紀にわたったトーリー党政権がここに終焉した。
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