カニング派時代とは? わかりやすく解説

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カニング派時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/11 15:10 UTC 版)

ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事における「カニング派時代」の解説

パーマストン卿はパーシヴァル首相暗殺後特定の党派属していなかったが、1828年初頭までには「旧態依然としたトーリー革新的すぎるホイッグ中間を行く」カニング派英語版)の領袖一人自他共に認められるようになっていた。 結局パーマストン卿は、カトリック解放問題選挙法改正問題めぐってウェリントン公爵内務大臣サー・ロバート・ピール準男爵対立深め1828年5月28日には戦時大臣辞して政権から離れた。同じころ、他のカニング派閣僚陸軍植民地相ウィリアム・ハスキソン外相ダドリー伯爵英語版)、アイルランド担当相ウィリアム・ラム(後のメルバーン子爵)、商務チャールズ・グラント(後のグレネルグ男爵)(英語版)らも辞職している。 政界入って以来、はじめて野党生活に入ったパーマストン卿だが、カニング派実務経験豊富な人材宝庫としてトーリー党からもホイッグ党からも注目されていた。とりわけパーマストン卿はカニング派の中では外交専門家目されており、ホイッグ党左派ホランド男爵にその能力高く評価されていた。また当時ホイッグ党党内主だった派閥領袖貴族院集中していたため、庶民院議員パーマストン卿を迎え入れたいという声が強かった当時カニング派最有力人物はハスキソンだったが、パーマストン卿はウェリントン公爵内閣外務大臣アバディーン伯爵対ギリシャ外交への批判存在感を一層高め1829年夏までには派閥内でハスキソンに次ぐ地位確立していた。 ハスキソンが1830年9月25日鉄道事故死亡すると、ホイッグ党グレイ伯爵メルバーン子爵パーマストン卿に連絡をとり、ホイッグ党カニング派連携確認した。さらにウェリントン公爵反発して政権離れたウルトラ・トーリーとも協力して11月15日ウェリントン公爵内閣議会敗北させて総辞職追い込んだ。およそ半世紀わたったトーリー党政権がここに終焉した。

※この「カニング派時代」の解説は、「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の解説の一部です。
「カニング派時代」を含む「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の記事については、「ヘンリー・ジョン・テンプル (第3代パーマストン子爵)」の概要を参照ください。

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