カシュガルの調査
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:45 UTC 版)
「チョカン・ワリハーノフ」の記事における「カシュガルの調査」の解説
1858年にカシュガルで消息の途絶えたドイツ人地理学者アドルフ・シュラーギントヴァイト捜索のため、ワリハーノフはカシュガルに向かう。カザフの隊商に扮してカシュガルに入り、1858年9月末にコーカンド・ハン国の保護を受ける。1858年10月から1859年3月までカシュガルに滞在し、現地のアクカサル(領事・徴税官を兼ねた役人)からもてなしを受けた。カシュガルにおいては情報と学術資料の収集に専念し、またシュラーギントヴァイトがカシュガルのホージャ・ワリー・ハンに殺害されたことを知る。ワリハーノフはヤルカンド、ホータンの調査を希望していたが、それらの都市への移動は許されなかった。 やがてカシュガルの情勢が悪化すると、ロシアに帰国した。ワリハーノフはカシュガル旅行の成果を『アルティシャフル、すなわちカシュガリアの記述』にまとめ上げ、民族構成、政治組織などの考察を記した。 中央アジアへの進出を意図していたロシア政府はワリハーノフの業績に着目し、1860年から1861年にかけてサンクトペテルブルクの参謀本部と外務省アジア局に勤務する。 サンクトペテルブルクでは参謀本部軍事学術委員会からの依頼を受けて中央アジアと東トルキスタンの地図を作成する。また地理学者としてカザフスタン、中央アジアの地理・民族誌の資料をまとめ上げ、カール・リッターやチャン=シャンスキーら知識人と交流を持った。大学の講義に出席して諸外国語を学習し、オムスク時代からのドストエフスキーとの交流も続いた。 しかし、1861年春に肺結核に罹ったために帰郷する。
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