オランダ移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 10:21 UTC 版)
1920年12月に両親から送りだされてウィーン駅を出発、オランダのライデンに到着した。同地で暮らすオランダ人のニウウェンハイス夫妻に育てられることになった。この里親は5人の子持ちで決して裕福ではなかったが、ミープに懸命に栄養を付けさせてくれたという。彼らは「ヘルミーネ」という発音が苦手だったので代わりに「ミープ」というオランダ的な名前を与えた。 ミープのオランダ滞在ははじめ3カ月の滞在予定だったが、なかなか病状が回復しなかったので医師の診断で滞在が延長された。そうこうしている間にミープはすっかり里親の一家に溶け込み、家族同然になったという。1922年には里親の一家と共にアムステルダムのザウト地区(Amsterdam-Zuid)に移住した。 1925年に里親に連れられてウィーンに帰国し、実の親と対面した。ミープは依然として書類上オーストリア国籍だったが、彼女の心はすでにオランダ人であり、ウィーンに帰りたくはなかったという。実母も「ヘルミーネはやはりお二人と共にオランダへ帰った方がいいでしょう。もうオランダ人になりきってますから。今更ウィーンに帰っても悲しい思いをするだけだと思います」と里親に答えたという。こうしてミープは生涯オランダで暮らし続けることになった。 1927年にアムステルダムの高校を卒業すると繊維会社に事務員として就職した。ウィーンの実親にも仕送りをできるようになった。またこの会社で後の夫ヤン・ヒースと知り合った。しかし不景気の時代であったため1933年にはリストラされて失業した。独立心旺盛な若い女性だったミープははやく再就職をしたがっていた。
※この「オランダ移住」の解説は、「ミープ・ヒース」の解説の一部です。
「オランダ移住」を含む「ミープ・ヒース」の記事については、「ミープ・ヒース」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書からオランダ移住を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書からオランダ移住を検索
- オランダ移住のページへのリンク