エドゥアルド・モンドラーネの暗殺
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「モザンビーク独立戦争」の記事における「エドゥアルド・モンドラーネの暗殺」の解説
1969年2月3日、エドゥアルド・モンドラーネが何者かに暗殺された。この爆殺は、モザンビークの政治的安定化を目的としてポルトガルの秘密警察によってタンザニア・ダルエスサラームのFRELIMO事務所に送付された小包爆弾によるものと複数の情報源によって示唆されている。小包の中には爆薬を仕掛けた本が封入されており、この本を開くと同時に爆発したと考えられている。ただし別の情報源によれば爆弾はFRELIMO司令部におかれたモンドラーネの椅子の下で爆発しており、どの派閥・所属の者によって行われたかは定かでないともされている。 暗殺後、FRELIMOの独自の調査によりこの時点で既に処刑されていたシルベリオ・ヌンゴ (Silverio Nungo) とFRELIMOのカボ・デルガードにおけるリーダーだったラザロ・カバンダーメ (Lázaro Kavandame) に罪状が申し渡された。ラザロ・カバンダーメについては保守的すぎるという理由による不信感を生前のモンドラーネは隠しておらず、またタンザニア警察もまたポルトガルの秘密警察PIDE(英語版)(国防国際警察)と共謀してモンドラーネを暗殺したという理由でカバンダーメは起訴されていた。カバンダーメ自身は2か月後の1969年4月にポルトガルに投降している。暗殺の詳細に関しては現在もなお議論が続いているが、その中で多くの歴史家や伝記作者がポルトガル政府、中でもアギンター・プレスやPIDEの関与について言及し、また暗殺がポルトガルにおけるグラディオ機構(イタリア語: Organizzazione Gladio)のような並列部隊 (英語: Stay-behind) であるアギンター・プレスによって支援されていることが示唆されている。しかしながら当初は責任の所在が不明確だったことから、モンドラーネの死はFRELIMO内部の序列に関する疑惑の発生や後継者人事に関する権力闘争を引き起こした。この権力闘争の結果、暗殺前はモンドラーネの事実上の後継者と考えられていた、中道主義者であり1969年までモンドラーネの下でFRELIMO副代表を務めたウリア・シマンゴ師 (Rev. Uria Simango) が、強硬派のサモラ・マシェルとマルセリーノ・ドス・サントスによってFRELIMOから追放・逮捕監禁され、結果的にFRELIMOが大きく左傾化する原因になった。シマンゴ師は独立後の1975年に監禁されたまま裁判なしで処刑されている。
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