エウスカルツァインディア創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/28 17:33 UTC 版)
「レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ」の記事における「エウスカルツァインディア創設」の解説
1909年にビルバオに戻ると学問活動に一層励み、1911年には『オルツリ』、1914年には『ウルロ』を出版し、1918年には『スペイン語・バスク語ポケット辞書』を出版した。1918年にはオニャティにあるエウスコ・イカスクンツァの会議でエウスカルツァインディア(バスク語アカデミー)の創設に携わり、1919年に創設されるとそのままエウスカルツァインディアの会長に就任した。1920年にバスク語教授職を退任し、エウスカルツァインディアの活動に没頭した。エウスカルツァインディアでは機関誌「バスク語」の編集主幹を務め、また死去するまで会長の座にあった。1922年頃には『バスク民衆詩歌選』を、1923年にはバスク語の接尾辞に関する研究を、1925年には『バスク語の形態論』を著している。1927年にはレアル・アカデミア・エスパニョーラ(王立スペイン語アカデミー)の会員に推挙され、同時代のバスク人学者ではフリオ・デ・ウルキホとともに会員となった。1935年から1947年には『バスク地方の知識』を著したが、1951年、ビルバオでネルビオン川の氾濫が起こったすぐ後に死去した。
※この「エウスカルツァインディア創設」の解説は、「レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ」の解説の一部です。
「エウスカルツァインディア創設」を含む「レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ」の記事については、「レスレクシオン・マリア・デ・アスクエ」の概要を参照ください。
- エウスカルツァインディア創設のページへのリンク