ウランゲリ島での大失態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 18:22 UTC 版)
「ヴィルヒャムル・ステファンソン」の記事における「ウランゲリ島での大失態」の解説
1921年、ステファンソンは、ある4人の若者がシベリアの北にあるウランゲリ島に入植するための遠征を奨励・計画した。この島には、カーラック号での生存者22人のうち、11人が1914年の3月から9月まで住んでいた。当時のステファンソンには、北極にある島々の周遊に興味がある人を対象とした探検会社を設立する狙いがあった。ステファンソンはカナダ政府にこの要請を出したが、北極探検の結果を受けて、カナダ政府は遠征の支援を拒否した。ステファンソンはイギリス政府に要請を出すが、これも拒否された。さらに、ロシアの領土として認められているウランゲリ島にイギリス国旗が掲揚されたことで、国際問題となった。4人の若者は経験が浅く、極地点での遠征についても準備不足であった。彼らは島および凍ったチュクチ海を越えてシベリアから助けを求めようとするも全員死亡するに至った。生存できたのは、アラスカ州ノームで仕立て屋として雇われたイヌイットの女性、エイダ・ブラックジャック(Ada Blackjack)と、一緒に付いていった猫であった。エイダは生き残りの技術を学び、ウランゲリ島で2年間過ごしたのち、1923年に救助された。遠征の準備が不十分な人間をウランゲリ島に送り込んだことで、ステファンソンは世間の怒りを買った。カーラック号の悲劇とこの出来事により、ステファンソンの評判は大きく損なわれた。
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