ウィキペディアの発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 16:47 UTC 版)
「ウィキペディアの歴史」の記事における「ウィキペディアの発展」の解説
2002年3月、インターネット・バブル崩壊の影響からボミスが資金提供を中止したことを受け、ラリー・サンガーはヌーペディアとウィキペディアの両プロジェクトを離れた。2002年には、いかにオープン型の百科事典を運営すべきかについてサンガーとウェールズの意見に食い違いが生じていた。依然、両者は共に「オープンな協力作業(open-collaboration)」というコンセプトを支持していたが、問題を起こす編集者への対処、専門家による役割の設定、プロジェクトを成功させるための筋道などの点については対立していた。 ウェールズは、編集者によって自治され、ボトムアップの自主決定が行われるウィキペディアを推進し、自分はウィキペディアの日々の運営に関与しないと宣言して、コミュニティが自主運営の方法を学び、最良のアプローチを見つけるよう促した。 サンガーは自身を「包摂主義者」と呼んでおり、一方でほとんど何にでもオープンであると述べ、他方、Web 2.0の世界でも専門家が果たすべき役割が存在することを提唱した。一時的に学問の世界に戻った後、サンガーは「デジタルユニバース財団(英語版)」に参加し、2006年、新たなオープン型インターネット百科事典「Citizendium」(シチズンジアム)を立ち上げた。破壊的な編集行為を減らすため、シチズンジアムは実名の編集者によってのみ執筆され、「専門家による優しい指導」を得ることで記事の正確性向上を目指すものとされた。コンテンツ(記事の内容)に関する決定はコミュニティに委ねるとされたシチズンジアムは、「ファミリー・フレンドリーなコンテンツ」という方針をも提示していた。サンガーは当初、プロジェクトの運営が確立されるであろう数年後にはシチズンジアムを離れる意向であると述べていた。
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