ウァレリアヌスとガッリエヌスの時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 09:29 UTC 版)
「古代末期のキリスト教」の記事における「ウァレリアヌスとガッリエヌスの時代」の解説
デキウス以降は各地で教会会議も開催されるなど教会は平穏を取り戻していたが、257年、ウァレリアヌス帝は議員、騎士、宮廷人のキリスト教徒の地位と財産を没収し、教会の司教にローマ祭儀を強制し、ローマ、スペイン、パレスチナ、マウレタニアの司教が処刑された。しかしこの迫害も260年にシャープール1世がエデッサの戦いでウァレリアヌス帝を虜囚としたことで終息した。同じ年、ガリアのポストゥムスがローマ皇帝を名乗ってガリア帝国が独立した。 261年、ウァレリアヌス帝の息子のガッリエヌスが単独皇帝(それまで共同皇帝)となり、キリスト教に寛容な政策をとって、没収されていた財産を返還し、礼拝も許可した。このガッリエヌスの政策は勅令ではなかったが、キリスト教は実質的に公認されることとなった。ローマ帝国東部属州は、セプティミウス・オダエナトゥスがパルミラ(シリア)を中心都市として統括していた。帝国西部ではガリア帝国が割拠し、北部へはゴート族等が侵入するなか268年にガッリエヌスは暗殺された。271年、オダエナトゥスの妻ゼノビアとその子ウァバッラトゥスは皇帝私領アエギュプトゥス(エジプト)、カッパドキア、パレスティナ、カルケドン等に軍を派遣してローマ帝国からの独立を宣言した。しかし273年、皇帝アウレリアヌスはパルミラ王国を鎮圧した。274年には皇帝アウレリアヌスがガリア帝国を鎮圧し、太陽神(ソル・インウィクトゥス)神殿を建立するが、275年に暗殺される。
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