イル・ガーズィーの時代
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「アルトゥク朝」の記事における「イル・ガーズィーの時代」の解説
1107年、イル・ガーズィーはムハンマド・タパルによって南ジャズィーラからディヤール・バクルへ再封された。ムハンマド・タパルは1104年のバルキヤールク没後、単一の大セルジューク朝スルタンとなっていたが、ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はこれに敵対し、ジャズィーラへの侵攻をねらっていた。イル・ガーズィーのディヤール・バクルへの配置はこれに対処するためであった。イル・ガーズィーは目的を果たし、クルチ・アルスラーンを撃退している。その後1108年、甥イブラーヒームからマルディンを獲得した。 1110年ムハンマド・タパルはアルトゥク家をはじめ、アーミド(現在のディヤルバクル)、アフラート、アルザーンなどのトゥルクマーン系諸勢力を糾合して、対十字軍戦を試みた。しかしイル・ガーズィーとアフラートのスクマーン・アル=クトゥビー(兄弟のスクマーンとは別人)とのあいだに確執が生じ、成果をあげることはできなかった。これが原因となってムハンマド・タパルとイル・ガーズィーの関係も悪化した。これ以降アルトゥク朝はスルタンによる対十字軍戦への参加に慎重になってゆく。 イル・ガーズィーは1114年にはムハンマド・タパル麾下のモースルの統治者アクスンクル・アル=ブルスキーに対抗するトゥルクマーン部族連合を形成し、ダマスカスのアタベク・トゥグテギン(ブーリー朝の始祖)、十字軍のアンティオキア公国とともにモースルおよびムハンマド・タパルと戦った。1115年のセルジューク朝軍の大敗の遠因はここにある。 1118年のムハンマド・タパルの死によってセルジューク朝の脅威から解放されたイル・ガーズィーは再び対十字軍戦に乗り出す。このころ、北シリアの中心都市アレッポではシリア・セルジューク朝アレッポ政権がリドワーン没後に幼主が続いて衰亡し、さらにアンティオキア公国やニザール派の圧迫を受けて無政府状態の様相を呈していた。イル・ガーズィーはアレッポのカーディー、イブン・アル=ハッシャーブの要請にしたがって南下してアレッポに入り、リドワーンの娘をめとって幼主スルターン・シャーの後見として政権を受け継いだ。 イル・ガーズィーはダマスカスのトゥグテギンと同盟して、翌1119年7月28日、アンティオキア公国軍とサルマダの平野で会戦、大勝利を収めた。これによってアンティオキアは無防備状態に置かれるが、ディヤール・バクルに本拠を置くイル・ガーズィーは十字軍を含むグルジア、ビザンツなどキリスト教勢力との全面的対決を望まず、アンティオキア攻略戦をせずに撤退した。この時点で諸勢力の中でもアルトゥク朝の軍事力は傑出したものとなった。1121年、対グルジア戦を行っていた大セルジューク朝のスルタン・マフムードは、この軍事力を利用しようとしてグルジア侵攻を命じた。しかしイル・ガーズィーはグルジアのデヴィド4世と戦って大敗を喫し、セルジューク朝はティフリス(現在のトビリシ)を失った。なお、このとき戦功としてイル・ガーズィーはディヤール・バクルにおける最後のセルジューク朝の拠点マイヤーファーリキーンを獲得している。イル・ガーズィーは1122年、マイヤーファリーキーンで死去。同地に葬られ、息子たちのうちスライマーンがマイヤーファリーキーンとアレッポを、ティムルタシュがマルディンを継いだ。
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