イリエ・ドゥミトレスクとは? わかりやすく解説

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イリエ・ドゥミトレスク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/18 01:55 UTC 版)

イリエ・ドゥミトレスク
名前
ラテン文字 Ilie Dumitrescu
基本情報
国籍  ルーマニア
生年月日 (1969-01-06) 1969年1月6日(56歳)
出身地 ブカレスト
身長 172cm
体重 65kg
選手情報
ポジション MF
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1986-1994 / ステアウア・ブカレスト 165 (71)
1987-1988 FCオルト (loan) 31 (1)
1994-1996 トッテナム・ホットスパー 18 (4)
1995 セビージャ (loan) 13 (1)
1996 ウェストハム 10 (0)
1996-1997 クラブ・アメリカ 14 (1)
1997-1998 アトランテ 33 (3)
1998 ステアウア・ブカレスト 7 (3)
代表歴
1988-1999 ルーマニア [1] 62 (20)
監督歴
2000-2001 FCオツェルル・ガラツィ
2001-2002 FCMバカウ
2002-2003 FCブラショフ
2003 ルーマニアU-21代表
2003 アポロン・リマソール
2004 AEKアテネ
2005 エガレオ
2005 アクラティトス
2005-2006 カリテア
2006 PAOKテッサロニキ
2009 パントラキコス
2010 ステアウア・ブカレスト
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

イリエ・ドゥミトレスクIlie Dumitrescu1969年1月6日 -)は、ルーマニアの元サッカー選手サッカー指導者。ポジションはMF(攻撃的MF)。

クラブ経歴

ドゥミトレスクは1977年に8歳でステアウア・ブカレストの下部組織に入団しサッカーを学んだ。1986年にトップチームへ昇格を果たし、リーグ戦でデビューを飾った。しかし、UEFAチャンピオンズカップ 1985-86で優勝したレベルの高い選手層の中では出場機会を得ることは難しく、1987年からは経験を積む為にFCオルトへレンタル移籍をした。

翌1988年にステアウァに復帰すると19歳となっていたドゥミトレスクはレギュラーに定着し、マリウス・ラカトゥシュゲオルゲ・ハジらと共に攻撃陣を担い、1989年のUEFAチャンピオンズカップ 1988-89準優勝に貢献した(イタリアACミランに敗退)。東欧革命の影響により、ラカトゥシュやハジが国外のクラブへ移籍をすると、中心選手としてステアウアを牽引し、1993年UEFAカップウィナーズカップ準々決勝進出に貢献した(ベルギーロイヤル・アントワープFCに敗退)。

クラブや代表での活躍から西欧のビッグクラブから関心を集めるようになり、1994年イングランドプレミアリーグトッテナム・ホットスパーFCへ移籍した。これは当時のトッテナムの代表の強い希望によるものであったが、思うような結果を残せず、翌1995年スペインセビージャFCへレンタル移籍へ出された。セビージャでは好調なプレーを見せ、当時の監督はドゥミトレスクとの本契約を望んだが、クラブの会長は高額の移籍金が掛かることから難色を示し、最終的にトッテナムへ復帰することとなった。

トッテナムで短期間プレーした後、1996年ウェストハム・ユナイテッドへ売却されたが、外国人用労働許可証の問題により契約は無効となった。1996年夏にメキシコクラブ・アメリカへ移籍するが、1年後にはライバルクラブのアトランテFCへ移籍した。メキシコで2年間を過ごした後、1998年に古巣のステアウア・ブカレストへ復帰。前期シーズン終了後に現役引退を発表した。

代表経歴

ルーマニア代表としては、1989年のギリシャ戦で代表デビューを飾った。翌1990年のFIFAワールドカップ・イタリア大会代表メンバーに選出され2試合に出場した。

1994年のFIFAワールドカップ・アメリカ大会ではハジやフロリン・ラドチョウと共に攻撃の中心選手として活躍。決勝トーナメント1回戦のアルゼンチン戦では、ラドチョウが累積警告で出場停止という状況の中で本領を発揮。11分に左サイド角度のないところからの絶妙のFKで先制点を叩きだす[2]と、同点とされた後の18分にはハジのラストパスから得点を挙げて勝ち越しに成功した。58分には自陣からのカウンターアタックからアルゼンチンゴール前までドリブルで独走し、最後は自陣右サイドから一気に駆けあがったハジにラストパスを送り、ハジの右足での得点をアシストした[3]。ドゥミトレスクは2得点1アシストと全得点に絡む活躍を見せ、アルゼンチンを3-2で破る原動力となった。

その後、1998年FIFAワールドカップ・フランス大会にも出場するなど国際Aマッチ63試合に出場し22得点を記録した。

引退後

引退後は代理人として活動することを希望し、Sport & Business Worldという会社を設立したが、成功をすることは出来ず、サッカー指導者へと転身することになった。2000年からはFCオツェルル・ガラツィの監督に就任。翌2001年からはFCMバカウの監督を務めるなど、主にルーマニア、キプロスギリシャのクラブチームの監督を歴任した。2006年PAOKテッサロニキの監督に就任したが、カテナチオ(イタリアで1960年代に流行した戦術)を髣髴させる守備的な戦術を採用したことでサポーターの非難を浴び、2006年10月に監督を辞任した。2010年8月、ステアウア・ブカレストの監督に就任したが、9月20日に成績不振とサポーターとの対立により辞任した。

監督退任後は、ブカレストの中心にある高級レストランを運営するほか[4]、テレビのサッカー中継でのゲストコメンテーターとしても活動している[5]

代表歴

出場大会

試合数

  • 国際Aマッチ 64試合 20得点(1989年-1998年)[6]


ルーマニア代表 国際Aマッチ
出場 得点
1989 4 0
1990 11 0
1991 4 0
1992 5 2
1993 9 5
1994 17 10
1995 5 1
1996 2 0
1997 4 1
1998 3 1
通算 64 20

タイトル

選手時代

FCステアウア・ブカレスト
個人
  • ディヴィジアA得点王:1回(1992-93)

脚注

外部リンク




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