イエズス会聖ヨハネ修道院
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西日本霊性センター イエズス会聖ヨハネ修道院(黙想)(にしにほんれいせいセンター イエズスかいせいヨハネしゅうどういん(もくそう))は、広島県広島市安佐南区長束にあるカトリック教会イエズス会の修道院。
- ^ 広島自体も陸軍第5師団の拠点であった。
- ^ a b 白系ロシア人も抑留から免れていた。被爆後一時帝釈峡に移されたのも同様。広島原爆で被爆したロシア人参照。帝釈峡で受け入れた人物によると、1945年秋まで滞在していたという[12]。
- ^ ルーメルによると、クリスマスの夜には空襲は休みだと思っていたが東京では来たため、疎開するしかなかったという[13]。
- ^ a b 1936年創設の旧三篠町現在の西区楠木町にあった女子修道院。元々煉獄援助修道会日本教区はイエズス会広島教区が呼び寄せたことにより広島で発足した。グロッパーが設計した修道院は被爆の爆風で倒壊はしなかったが火災により全焼した。当時フランス人修道院長は結核により広島市祇園町の病院に入院、イギリスとベルギー出身の修道女は敵国人として抑留されており、被爆時にはフランス2・イタリア2・アイルランド1・日本2の計7人の修道女と、コップ神父の計8人がいた。当時の外国人修道女は2005年までに全員死去、日本人2人のうち1人は2019年死去、もう1人は2019年現在で存命[14][7][16][17]。
- ^ 1814年8月7日教皇ピウス7世の小書簡『カトリケ・フィデイ』によって41年ぶりにイエズス会の復興が許可された。
- ^ a b c d e f g h “イエズス会長束修練院”. ヒロシマをさがそう(NHK広島). 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e f “広島・長束修道院 被爆後 救護所に 当時を忍び7日から集い”. 中国新聞 (2016年8月1日). 2019年12月29日閲覧。
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- ^ “The Miracle of Hiroshima – Jesuits survived the atomic bomb thanks to the rosary”. CNA (2015年8月9日). 2020年6月8日閲覧。
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- ^ “修道女、広島の献身 欧州出身の5人が被爆後に看護(2/2)”. 朝日新聞 (2009年8月4日). 2011年11月26日閲覧。[リンク切れ]
- ^ a b “被爆神父 十字架残す 「あの日」も抑留時も保持 救護の姿 「原爆の絵」に”. 中国新聞 (2019年11月18日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c d e “原爆投下の中で―医師として、神父として”. 霊性センターせせらぎ. 2019年12月29日閲覧。
- ^ a b c “長束修練院の歴史”. イエズス会 聖ヨハネ修道院 西日本霊性センター. 2011年11月15日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 戦災誌 2005, p. 1023.
- ^ “「長束修練院」被爆後の写真発見 「礼拝堂の外壁の柱折れ、扉もつぶれ…」神父の手記と合致”. 中国新聞 (2014年7月31日). 2019年12月29日閲覧。
- ^ 石丸紀興『世界平和記念聖堂』相模書房 1988年 p.17
- ^ a b c d “イエズス会聖ヨハネ修道院”. アーキウォーク広島. 2019年12月29日閲覧。
- ^ ジョン・ハーシー『ヒロシマ』法政大学出版局 1949年 p.16
- ^ “黙想の家案内”. 霊性センターせせらぎ. 2013年1月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年12月29日閲覧。
- ^ “遺跡地図” (PDF). 広島県教育委員会. 2019年12月29日閲覧。
- ^ “広島市(旧・佐伯郡湯来町を含む)” (PDF). 広島県教育委員会. 2019年12月29日閲覧。
- 1 イエズス会聖ヨハネ修道院とは
- 2 イエズス会聖ヨハネ修道院の概要
- 3 沿革
- 4 構造
- 5 交通
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