イェール大学と合衆国地質学調査所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 16:10 UTC 版)
「ジョン・ベル・ハッチャー」の記事における「イェール大学と合衆国地質学調査所」の解説
化石収集に情熱を燃やしていたハッチャーは、1884年にマーシュに月50ドルの初任給で雇われた。 彼の最初の任務は、チャールズ・ヘイゼリアス・スタンバーグの監督の下で、カンザス州ロングアイランドにある、「ロングアイランド・サイ採石場」("Long Island Rhino Quarry")と呼ばれる場所からの標本収集だった。 マーシュから正式な教育と訓練を受けたハッチャーは、慎重な作業者であることを証明し、他の採集者よりも少ないダメージで化石を発掘することに長けていた。 ハッチャーは、このクオリーでの発掘方法に基づいて、発掘現場の上に番号のついた正方形のグリッドシステムを置くことを発明した最初の人物であり、このグリッドマップを使って、標本が発掘された場所から正確な位置を記録している。 この種の地図システムは、タフォノミーの基礎と考えられている。ロングアイランド・サイ採石場では様々な発掘調査によって、現在テレオケラスとして知られている化石哺乳類を始めとする、多くの標本が発見された:35。 ハッチャーは1893年までマーシュのもとで働き、西部の各州で化石の発掘調査で成果をあげた。1889年にはワイオミング州ラスクの近くでトロサウルスの最初の化石を発掘した。 ハッチャーは最終的にイェール大学に不満を抱いた。その理由の一つは、マーシュがハッチャーに出版することを認めず、手柄を自分のものにしていたことが挙げられる。ハッチャーはマーシュとの手紙の中で、イェール大学か合衆国地質学調査所のいずれかに定職を与えられなかったこと、およびコレクションの研究のために休みなくフィールドワークを続けていたことを、他の仕事を探していた理由として挙げている。 1890年、ハッチャーはプリンストン大学のウィリアム・ベリーマン・スコットに仕事を依頼したが、資金繰りの問題で成功しなかった。その後、ヘンリー・フェアフィールド・オズボーンとアメリカ自然史博物館の職について交渉したものの、最終的にはマーシュと契約を結び、1891年から1896年までイェール・ピーボディー自然史博物館で地質学の助手として働くことになった。この際、フィールドに出ていない時は所蔵品を研究する自由が認められた:163–173。しかし、1892年には合衆国地質学調査所の資金が議会によって大幅に削減され、マーシュはハッチャーに発掘の報酬を支払うことができなくなってしまった。 交渉の末、契約は1893年初旬に終了した:163–173。
※この「イェール大学と合衆国地質学調査所」の解説は、「ジョン・ベル・ハッチャー」の解説の一部です。
「イェール大学と合衆国地質学調査所」を含む「ジョン・ベル・ハッチャー」の記事については、「ジョン・ベル・ハッチャー」の概要を参照ください。
- イェール大学と合衆国地質学調査所のページへのリンク