イウカ及び第二次コリンスの戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 01:40 UTC 版)
「テネシー軍」の記事における「イウカ及び第二次コリンスの戦い」の解説
詳細は「イウカの戦い」および「第二次コリンスの戦い」を参照 1862年7月、リンカーンはハレックをワシントンに呼び戻し、陸軍総司令官に任命した。ミシシッピ軍管区の後任司令官は任命されなかったため、9月までに広大な地域を管轄したミシシッピ軍管区は解散された。それに先立つ7月16日、ハレックはグラントの西テネシー小軍管区を拡大し、アラバマ州とミシシッピ州も管轄に含め、ローズクランズの指揮下にあった5個師団からなるミシシッピ軍も隷下におくこととなった。グラントは、拡大した責任に対処できるよう、軍の司令部をコリンス(後にはジャクソン)に移した。しかし、その後すぐに4個師団(トーマスの師団とローズクランズのミシシッピ軍から3個師団)がビューエルのオハイオ軍に配属替えとなり、これらを失うこととなった。このため、テネシー軍の兵力は約80,000名から50,000名以下となった。この戦力低下により、グラントは残存兵力を用いて南軍の脅威に対して、「防御的」姿勢をとることとなった。グラントは後に、この頃が「戦争期間中、最も不安な時期であった」と述べている。9月になって、ローズクランズがイウカの戦いで勝利し、その結果として生じた第二次コリンスの戦いで勝利したことにより、この不安な時期は終った。この2つの戦いにおいて、グラントはローズクランズの近くにあり、戦場には出向かなかったが、彼に協力した。ローズクランズはイウカでは縮小されたミシシッピ軍を率い、コリンスではテネシー軍からの2個師団の支援を受けた。コリンスでの勝利は、グラントを「管轄地域の安全性に関する不安」から開放するに十分なものであった。 10月16日、グラントの管轄地域は再度見直され、レベルも小軍管区(district)から軍管区(department)に変更され、テネシー軍管区となった。これによりテネシー軍の名称は公式な管轄範囲と一致することとなった。同じく10月には、ビュエルがオハイオ軍司令官の地位を失い、ローズクランズが引き継いだが、この際に名称もカンバーランド軍に変更された。12月18日に出された命令により、実行にはやや時間がかかったものの、グラントのテネシー軍は4個の軍団に分割された。すなわち、マクナーランドの第13軍団、シャーマンの第15軍団、スティーブン・ハールバット(Stephen A. Hurlbut)の第16軍団、およびジェイムズ・マクファーソンの第17軍団である。それぞれの軍団は複数の師団に加え、独立した騎兵部隊と砲兵部隊を有しいていた。1863年4月30日の公式文書での報告によれば、テネシー軍の兵力は約150,000名であった。
※この「イウカ及び第二次コリンスの戦い」の解説は、「テネシー軍」の解説の一部です。
「イウカ及び第二次コリンスの戦い」を含む「テネシー軍」の記事については、「テネシー軍」の概要を参照ください。
- イウカ及び第二次コリンスの戦いのページへのリンク