アール・アッ=シャイフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/22 17:30 UTC 版)
「ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブ」の記事における「アール・アッ=シャイフ」の解説
詳細は「アール・アッ=シャイフ(英語版)」を参照 イブン・アブドゥル=ワッハーブは、バグダードにいたころ、一人の裕福な女性と結婚したという伝承がある[誰?]。彼女が亡くなったとき、イブン・アブドゥル=ワッハーブは土地と財産を受け継いだという。しかしながら、この「裕福な女性」との結婚及びバグダードへの旅行をしたという説は、サラフィー派のウラマーから異議が申し立てられている。サラフィー派によると彼の婚姻は彼がまだティーンエイジャーのころに父アブドゥル=ワッハーブにより縁組されたものであって、彼はバスラを越えて遠くへ旅したことはないという。 ムハンマド・イブン・アブドゥル=ワッハーブには6人の息子がいた。フサイン、アブドゥッラーフ、ハサン、アリー、イブラーヒームの5人に加え、夭折したアブドゥルアズィーズの6人である。成人した息子たちは皆、家のすぐ近くにマドラサを建て、ディルイーヤやその他の場所からやってくる若い弟子たちを教育した。イブン・アブドゥル=ワッハーブの子孫たちは「アール・アッ=シャイフ(英語版)」と呼ばれ、サウード家が治める国(アッ=ダウラッ=サウーディー)において歴史的に、国家公認の宗教者養成施設を支配して、ウラマーの指導層を形成した。 現代サウジアラビアにおいて、アール・アッ=シャイフに属する人々は「アール・サウード」と呼ばれるサウード王家と同等の威信を保持している。両者は権力を分け合い、ウラマーや政府の官僚などの地位についている。両家の協定は、アール・サウードが信仰に関わる分野においてアール・アッ=シャイフの権威を維持し、サラフィー主義の原則を掲げ、これを弘宣することに基礎を置く。アール・アッ=シャイフはその見返りとして、アール・サウードの政治的権威を支持する。サウジアラビアではこのように宗教的道徳的権威(英語版)が、王族支配の正当化に役立てられている。
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