アーイシャの首飾り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 19:42 UTC 版)
「アーイシャ・ビント・アブー・バクル」の記事における「アーイシャの首飾り」の解説
625年のウフドの戦いの後、ムハンマドの治めるマディーナはメッカの策略によってたびたび周辺諸族の攻撃を受けるようになっていたが、アーイシャはムハンマドが出陣する際には常に付き従っていた。627年のムスタリク族(アラビア語版)[要リンク修正](アラビア語: غزوة بني المصطلق Banu Mustaliq)との戦い(Invasion of Banu Mustaliq)から帰る途中、彼女はムハンマドから贈られた首飾りを失くしてしまい、それを探すために一人砂漠の中ではぐれてしまっていた。そこにちょうど通りかかったイスラム軍の青年兵士、サフワン・イブン・アル・ムアタル・アル・スラミー(英語版)がアーイシャをラクダに乗せてマディーナまで送り届けたが、これが事件に発展する。 マディーナの人々はアーイシャの不義を疑い、ムハンマドに詰め寄った。当時のアラブ人の慣習では、砂漠で男と一夜を過ごした妻は離縁。不義密通を犯した妻は、石を投げつけられて殺されるのが普通であったからである。アーイシャはムハンマドの側近アブー・バクルの娘でもあったことから、これは大きな政治問題にまで発展したが、最終的にムハンマドが彼女の密通疑惑を否定し、疑ってはならないという天啓を受けたと主張したことで解決した。 この時、側近の誰もがムハンマドとアブー・バクルに遠慮してアーイシャと離縁するように言い出せない中で、唯一それを言ったのがムハンマドの血縁者でもあり、後に4代目カリフとなったアリー・イブン・アビー・ターリブであった。アブー・バクルとアリーの間は、この事件を機に冷えてゆくことになる。また、アリーとアーイシャの確執もこのことに起因すると言われる。この事件以来、ムハンマドも女性の貞節には敏感になった。女性にベールを着用するように義務付ける天啓は、クルアーン学者によればこのすぐ後の時期のものであるとされている。
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