アルフレッド・スティールとペプシコ社
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「ジョーン・クロフォード」の記事における「アルフレッド・スティールとペプシコ社」の解説
1955年5月10日にクロフォードは、ラスベガスのフラミンゴ・ホテルでアルフレッド・スティール (Alfred Steele) と結婚式を挙げた。クロフォードとスティールが出会ったのは1950年に開かれたパーティの会場で、当時のスティールはペプシコ社の重役だった。二人は1954年の年越しパーティでさらに親密になっていった。このときのスティールはペプシコ社の社長になっていた。後にスティールはペプシコ社の会長兼最高経営責任者となっている。結婚後のクロフォードは、ペプシコ社の代表として各地を訪れた。クロフォードがペプシコ社の社用で旅した距離は、およそ100,000マイルだといわれている 。 スティールは心臓麻痺で1959年に死去した。未亡人となったクロフォードに、ペプシコ社は当初、もう社用に関わる必要はないと告知していた。しかしながらクロフォードがコラムニストのルエラ・パーソンズにペプシコ社とのいきさつを話すと、ペプシコ社は前言を撤回してクロフォードをもとの地位に戻し、取締役会は空席となっていた役員の席をクロフォードに与えた。 クロフォードは年に1回の「パリー賞 (Pally Award)」を、ペプシコ社から6度受賞している。ブロンズのペプシコーラのボトルをトロフィーとしたこの賞は、販売成績にもっとも貢献した従業員に贈られるペプシコ社の社内褒賞である。1973年にクロフォードはペプシコ社の幹部職員ドナルド・M・ケンドールからの勧告でペプシコ社からの引退を余儀なくされた。ケンドールは数年来クロフォードのことを「毒牙」と評していた人物だった。
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