アメリカ植民地との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 15:37 UTC 版)
「ジョージ・グレンヴィル」の記事における「アメリカ植民地との対立」の解説
1763年10月には宣言線(Proclamation Line)を制定し、アレゲーニー山脈以西をインディアン保留地として白人の立ち入りを禁じた。無秩序な植民地拡大を抑えようとしたものだったが、アメリカのフロンティア開拓者や土地投機家からは反発を招いた。 また七年戦争で疲労したイギリス財政の立て直すため、植民地への負担を増加させた。1764年4月には植民地に輸入する外国精糖に対して高率関税をかけることを内容とする「砂糖法(Suger Act)」を制定したが、これは本国議会に植民地に課税する権利はあるのかという議論を喚起することになった。 さらにグレンヴィル内閣は、植民地で出版された新聞、パンフレット、宣伝広告文書、カードなどに対して印紙を貼り付けることを義務付けて印紙税をかける内容の「印紙法(Stamp Act)」を1765年3月に制定した。これは関税と異なり、直接的に植民地での歳入を上げることを狙ったものだったから、より広範な植民地人の反発を招いた。たとえばマサチューセッツ州議会(英語版)は抗議のために閉会し、ジョージ3世と本国議会に宛てて「代表なくして課税することはイギリス憲法の基本原則を破るものである。植民地が本国議会に代表を送っていない限り、課税権は植民地の州議会にある」という内容の決議を発している。 印紙税をはじめとする植民地人の本国に対する反感は最終的にアメリカ独立戦争という形で爆発するが、この時のイギリス本国議会にはその重大性が理解できていなかった。大ピットなどごく一部の議員を除き、印紙税に反対する議員はほとんどいなかったことにそれが表れている。想像以上の植民地からの強い反発でイギリス議会も危機意識を持ち、グレンヴィル退陣からまもない1766年3月に印紙法は廃止された。だがその時にはすでに手遅れであり、本国と植民地の関係が修復されることはなかった。
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