アナキストとして
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/28 01:43 UTC 版)
中学2年時の遠足の際、白蓮事件を題材に自由恋愛について演説を奮ったのを担任から「おまえは無政府主義者だ」と叱責されたことをきっかけに、大杉栄らアナキストの著作に関心を持つようになる。高校中退ののちは当時神戸市に拠点を置いていた増田信三らによるアナキスト団体黒闘社に3ヶ月身を寄せ、次いで大阪で夫婦ともに様々な労働をこなしながら大阪合成労働組合(大阪合成)の活動に二年間従事する。その後は上京すると、日本労働組合自由連合協議会に参加。1931年には浅草の日本染絨工場で起きた煙突男争議においてその交渉役を任されるなど、実践派のアナキストとして活動を続けた。しかしながら徐々に後述する競馬関係の活動が主となり、戦中に同志が当局により拘束されていく中でも特高内では「新平はアナはアナでも馬の方だ」と揶揄されるような状態であった。 それでも敗戦後の1946年1月には、天皇制を批判したパンフレット『天皇制を裁く』を出版。同年6月には日本アナキスト連盟の結成に参加し、その創立大会にも出席している。これらの活動が自然消滅したのちも、W.R.I(War Resisters' International)の日本での活動を支援するなどした。
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