アダド・ニラリ2世とアッシュル・ナツィルパル2世(前911年~前859年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 14:23 UTC 版)
「新アッシリア帝国」の記事における「アダド・ニラリ2世とアッシュル・ナツィルパル2世(前911年~前859年)」の解説
アダド・ニラリ2世の軍事遠征が始まると、アッシリアは再び強国となり、やがて最終的にはエジプト第25王朝を転覆させ、エラム、ウラルトゥ、メディア、ペルシア、シリア地方諸国、新ヒッタイト(英語版)までも征服するようになる。新アッシリア帝国の始まりである。 アダド・ニラリ2世とその後継者たちは、毎年限られた時季に、非常の良く組織された軍隊により遠征した。彼は、それまで名目的な支配に成り下がっていたアッシリアの領地を、アラム人とフルリ人をはるか北へと追いやることにより取り戻した。次いで、アダド・ニラリ2世はバビロニアのシャマシュ・ムダミクを2回攻撃してこれを破り、ディヤーラー川の北の広大な土地と、メソポタミア地方中央部にあるヒート(Hit)とザンク(Zanqu)の町を併合した。彼はその治世の後半に、ナブー・シュマ・ウキン1世が治めるバビロニアからはるかに大きな利益を得た。 紀元前891年に、彼の跡をトゥクルティ・ニヌルタ2世が継いだ。トゥクルティ・ニヌルタ2世はアッシリアをさらに強化し、その短い治世の間にアッシリアの領土を北方の小アジアとザグロス山脈まで広げた。 その次の王、アッシュル・ナツィルパル2世(紀元前883年~紀元前859年)は、帝国の大規模な拡大計画に乗りだした。彼の治世において、アッシリアは、中アッシリア時代末期の紀元前1100年頃に失った多くの領土を回復した。アッシュル・ナツィルパル2世は現代のイラン、ザグロス山脈にも遠征し、ルルビ(Lullubi)及びグティによる反乱を鎮圧した。この頃からアッシリア人は、自分たちの無慈悲さを誇り始めた。アッシュル・ナツィルパル2世はまた、首都をアッシュルからカルフ(ニムルド)に遷した。彼により建てられた宮殿、神殿、その他の建物は、この時期においてアッシリアの富と芸術が非常に発展していたことを証明する。アッシュル・ナツィルパル2世は被征服民の大量追放政策を導入した。それは彼の息子、シャルマネセル3世の下で、次第に大規模なものになっていく。
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