ある在ジャワ「台湾籍民」の物語
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「台湾籍民」の記事における「ある在ジャワ「台湾籍民」の物語」の解説
日本統治時代の台湾における台湾人は閉塞感と劣等感の中で暮らしていた。台中州大甲郡大甲街出身の柯呆は、米穀商を営み4人の子供の父親として平凡な生活を送っていた。ある時息子を連れて散歩していたとき、商売禁止とされていた路上で野菜を売っていた小農民が日本人警官に打ちのめされる光景を目撃した。彼は力なく息子に「見ただろう。あれが台湾なのだ」とつぶやいた。その後、妻子を置いて当時蘭領インドに渡り、東部ジャワの高原都市マランにわずかな縁故を頼りに糊口を求めた。刻苦精励の後一本立ちし、コーヒーと綿花の栽培でかなりの資産を築いた。帰国するたび家族に、ジャワ島の生活は、環境も安定しており、治安もよく、しかも「日本人はといえば一等国民としてどこでも尊敬されていた」と語ったという。彼は、日本人と同等の権利を受けていたのである。1939年(昭和14年)5月19日台湾総督府は、「皇民化、工業化、南進化」三大政策を公布する以前、台湾から蘭印をはじめとする南方各地に渡った「台湾籍民」はこの柯呆と共通する心情をもち、同じような期待感、解放感を味わいながら渡南し、現地社会に根をおろしていった。いわば日中戦争期以降の国家権力の命令による渡南とは異なる自然流出的な人の流れである。
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