『かてもの』の成果
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治憲や莅戸の没後である天保3年(1832年)は天明以来の大凶作となり、翌年には天保の大飢饉が発生した。当時の藩主・上杉斉定(治広の養子)は、「かてもの」を取り出して藩主自らが白米の食事を絶って粥をすすり、『かてもの』の記事の実践に努めた。これを見た藩士・領民もこれに倣った。米沢藩では備荒事業として領内の各所に籾蔵を建てて貯蔵米を確保しており、これらの事業と『かてもの』の出版は天保の大飢饉で多くの領民を救い、さらにこれらの知識は他藩の飢える者をも救ったといわれている。 明治維新後も『かてもの』の版木は引き継がれて、後に米沢市によって市立図書館に収められた。1956年(昭和31年)8月31日には山形県貴重文化財に認定されている。 明治時代に根釧台地に駐屯していた屯田兵の部隊が食料不足で苦しんだ時に偶々所属していた旧米沢藩出身者の兵士が『かてもの』を愛読しており、その知識で飢えを凌いだと記録されている。また、第二次世界大戦による食糧難において『かてもの』を活字体に直して頒布した地域も多かった。
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