「雪舟五代」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 05:37 UTC 版)
等伯は私生活では不幸もあったが、絵師としては順調であった。慶長4年(1599年)本法寺寄進の『涅槃図』以降、「自雪舟五代」を落款に冠しており、自身を雪舟から5代目にあたると標榜した。雪舟-等春-法淳(養祖父)-道浄(養父)-等伯と、当時評価が上がりつつあった雪舟の名を全面に押し出しつつ、間に祖父と父の名を加え、自らの画系と家系の伝統と正統性を宣言する。これが功を奏し、法華宗以外の大寺院からも次々と制作を依頼され、その業績により慶長9年(1604年)に法橋に叙せられ、その礼に屏風一双などを宮中へ献上した。この年の暮れ、本法寺天井画制作中に高所から転落し、利き腕である右手の自由を失ったと言われるが、その後の作が残っていることからある程度は治ったものと考えられる。慶長10年(1605年)には法眼に叙せられ、この年に本法寺客殿や仁王門の建立施主となるなど多くのものを寄進、等伯は本法寺の大檀越となり、単なる町絵師ではなく、町衆として京都における有力者となった。
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