「贖宥」と「免罪」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:19 UTC 版)
「95か条の論題」の記事における「「贖宥」と「免罪」」の解説
詳細はレオ10世による贖宥状#贖宥状とは参照 ルターは、贖宥の概念について学術的な討議を求めていた。本来「贖宥」というのは、人が犯した「罪」に応じて、教会が人に与えた「罰」のうち、そのいくらかを免除するというものだった。ルターの考えでは、カトリックの教理のなかでは、贖宥によって免じられるのは「罰」であって、「罪」自体が免れるわけではない。しかも教会が免じることができるのは、あくまでも教会が定めた「罰」のみであって、神が与えた「罰」は免じることができないはずである。 5 教皇は、自己の判断と教会法の規定によって課したものを除いては、いかなる罰をも赦そうとするものではないし、また赦すことはできない。 — ルター、95ヵ条の論題の5(『皇帝カール五世とその時代』p25より) ところが、この贖宥状を売っている連中は、ありとあらゆる罪が無くなるかのようなことを言っており、ひどいものでは「あらかじめ贖宥状を買っておくと、そのあと悪事を行っても大丈夫」というような売り口上すらあったという。これはカトリックの教理に反しているはずであり、そこを議論ではっきりさせたい、というのがルターの主張だった。贖宥状の有効な対象が適切な部分に留まっているならば、それは教理に適合しているのであり、ルターは贖宥状が全て不適切だと批判したわけではなかった。 34 かの贖宥の恵みは、人間によって定められた秘蹟による償罪の罰だけにかかわる。 — ルター、95ヵ条の論題の34(『ドイツ史1』p433より) ただし実際問題としては、贖宥の概念についてそこまで詳しく理解している聖職者は当時ほとんどおらず、修道会におけるルターの師はもちろん、大司教や教皇でさえも、こうした教理を精確に知っているものはほとんどいなかった。大衆は「罪」と「罰」の区別もついておらず、贖宥状売りの口上を鵜呑みにしているだけだった。
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