「菊屋」から「玉屋」へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 00:21 UTC 版)
長崎県佐世保市、福岡県福岡市、佐賀県佐賀市で既に百貨店を経営していた田中丸一族は1937年(昭和12年)4月14日にグループ4社目となる新たな百貨店を設立し、1938年(昭和13年)10月25日に当時の小倉市室町にオープンさせた。各地域の独自性を重んじ「一店一社」制をとっていた田中丸一族は、井筒屋ができてまだ年も浅いことから進出に反対していた地元に配慮し、既に導入していた「玉屋」の商号は用いず、「菊屋」の名称で営業を開始した。従業員は男女合わせて800名であった。 太平洋戦争後の1945年(昭和20年)には占領軍に接収司令を受けた。交渉の結果一階と地階だけは営業が認められたが、残りは宿舎として接収され、2・3階は宿舎、4階は空き、5階は「看護婦」と称する慰安婦200名ほどの住まいにされたという。地階もすぐに接収され、食堂とされた。翌年5月にはついに全館を接収された。その後1・2階は「PXストア」(米軍の用語で「売店」を意味する)とされ、3階は放送施設、5階には玉突き場やバーが入居していたという。 玉屋は接収に備えて魚町に店舗を確保していたが、それでも従業員が余ったため1か月は口入れ屋まで行って、なんとか会社と従業員を守ったという。6月には大阪町の大沢ビル内に仮事務所を設立。魚町にも660㎡のバラックを建設した。翌年には京町三丁目に約120坪の仮事務所を設立し、その後同地にて占領軍専用の国内輸出業「エクスポートバザー」を新設した。玉屋の接収が解除されたのは1952年(昭和27年)3月31日、再開店にこぎつけたのは同年10月のことであった。このときから正式に「玉屋」の商号を用いるようになった。
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