「統一左翼」期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/16 08:32 UTC 版)
「アルゼンチン共産党」の記事における「「統一左翼」期以降」の解説
1987年に「社会主義運動」(当時)と共に政党連合「統一左翼」を結成。国政選挙で40万票前後を獲得するなど善戦したが、内部対立により解散(1991年)。 他の親ソ系政党同様、1991年のソ連崩壊で後ろ盾を失った共産党は深刻な状況に陥るが、この頃よりキューバ共産党との連携が強化されるようになる。 1996年の臨時党大会中に分裂騒動が置き、離脱メンバーらによってアルゼンチン共産党 (臨時党大会派)(英語版)(PCCE)が急遽結成された。PCCE側が党章のデザインと機関誌の名称(「我々の言葉」)を無断で共産党のそれらと同一にした為、共産党は党章の刷新を強いられ、機関誌の名称も現行の「我々の提案」に改めた。なお、PCCEはキルチネル体制が発足した2003年以降「与党」として政権に参加している。 1997年「社会主義労働者運動」との間で「統一左翼」が再結成され、2001年の選挙では国会で2議席を、2003年には同じく1議席をそれぞれ獲得。 2007年の大統領選挙時には「人権党」と政党連合を組み、同党のルイス・アマンを統一の大統領候補として擁立したが、0.41%の得票で惨敗。
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