「片腕の奇跡」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 04:27 UTC 版)
1942年、グレイはセントルイス・カージナルスとフィラデルフィア・アスレチックスの入団試験を受けたが採用されず、マイナーリーグのC級トロイスリバーズに入団、そこで打率.381の成績を残した。その後にA級メンフィス・チックス(英語版)がグレイを獲得、グレイは1944年にサザン・アソシエーション(英語版)で打率.333、盗塁68という成績を残し、この年のリーグの最優秀選手賞を手にする。フィラデルフィアのスポーツ誌はグレイを「片腕の奇跡」(One-Armed Wonder)と書きたて、最も勇気あるアスリートとして表彰した。しかし片腕ゆえ兵役につけなかったグレイは、当時第二次世界大戦下で多くの兵士が戦線に出ていたこともあり、「私のしたことは勇気ではない。勇気はダイヤモンドではなく、戦場にある」というコメントを残している。 戦争が激化し多くのMLB選手が兵役に出る中、1945年、グレイはついにセントルイス・ブラウンズと4,000ドルの契約を結び、夢だったヤンキー・スタジアムでのプレーを実現させることになった。片腕で見事に打ち、守るグレイのプレーは戦闘で障害を抱えた軍人達に感動を与えた。またグレイ自身も軍の病院やリハビリテーションセンターを訪問し、障害を持った患者達を励ます活動をした。ある記者は「ベーブ・ルース以来の人気者」と絶賛し、ファンも続々と詰めかけた。日本の英語の教科書でも紹介されている。
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