「尉繚」とは誰か?
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 15:28 UTC 版)
『尉繚子』の書名からして、「尉繚」という人物(あるいはその門人ら)が執筆したという事は推測がつくところであるが、では尉繚がどんな人物かという具体的な点となると諸説があって判別しがたいのが現状である。 一般的には次の説が挙げられている。 斉の人で鬼谷子の門人であったという説。 魏の人で恵王に仕えていたという説(『尉繚子』本文に恵王と尉繚子との会話が登場する) 魏の人で商鞅の学問を学んだ後に秦王政に仕えて対秦包囲網を破る策を上申するも、王の残忍さを危惧して去ることを決意する。だが、王の懇願によってそのまま秦の将軍となった(『史記』の説)。 この中では、内容が具体的で商鞅の影響を受けているという点で一致しているのは3.であるが、これを採った場合には尉繚は魏の恵王よりも100年も後の人となり、文章との矛盾が生じる。この矛盾については、魏の恵王との会話から始まる『孟子』のスタイルを模倣したのではないかと推測する説がある。また、文中の戦闘形態が戦国時代中期の様相に似ているために、2.を支持する説もある。また、2.と3.を同一人物とすることは無理でも何らかの血縁関係などを想定する見方もされるなど、尉繚の実像については未だに具体的な姿がつかめていない。
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