「国士」苫米地校長と戦時体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 15:22 UTC 版)
「小樽高等商業学校」の記事における「「国士」苫米地校長と戦時体制」の解説
小樽高商はつづく第3代校長・苫米地英俊のもとで体制を一新した。彼は学校運営に辣腕をふるい、創立25周年記念事業として研究資金200,000円の募集を進め、卒業生を対象とする修業年限1年の「研究科」設置を構想し、1937年にはこれと呼応するように小樽市議会により小樽高商の商科大学昇格案が出されたが、戦時体制の進行のなかでいずれも挫折した。その一方で苫米地は生徒の体力向上の観点からスポーツを奨励し、 1936年2月の第4回冬季五輪には生徒の宮島巌が出場している。 1930年代後半以降、戦時体制が本格的に進行すると、「国士」的風格を持つ国家主義者であった苫米地は、小樽高商をこの体制に最大限協力させることで、高商を高工(工専)化しようとする軍部の圧力から守り、他のいくつかの官立高商が強いられた工専への転換を回避し、小樽経済専門学校への改編(1944年4月)に止めることに成功した。しかし反面、彼の専制的な学校運営は、学内のリベラル派の教官たちの反発を呼び、1942年9月には苫米地と衝突した手塚寿郎教授が上海の東亜同文書院大学に転出する事件も起こった。また一方で戦中には、高商に多数雇用されていた外国人教師に対しての当局の監視・弾圧が強まり、マッキンノンとスミルニツキーが「スパイ容疑」を理由に検挙された。
※この「「国士」苫米地校長と戦時体制」の解説は、「小樽高等商業学校」の解説の一部です。
「「国士」苫米地校長と戦時体制」を含む「小樽高等商業学校」の記事については、「小樽高等商業学校」の概要を参照ください。
- 「国士」苫米地校長と戦時体制のページへのリンク