「九州軍団」の必要性を説く
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/05 03:31 UTC 版)
「矢村正」の記事における「「九州軍団」の必要性を説く」の解説
中野の競輪祭における優勝については、中野本人以上に矢村は喜んでいた。自分の全盛時代はまさしく孤軍奮闘の状態が続いていた。しかしこの一戦では珍しく九州が一つにまとまった。今後も中野を中心として「九州は一つに」という形ができるのではないかと思われたが、翌1979年の競輪王決勝戦でその考えは脆くも崩れ去る。 このレースでは、何と九州勢は6人も優出を果たした(熊本3名、福岡2名、長崎1名)。人気の中心は断然中野。矢村もこの6人の中にいた。ところが吉井秀仁 - 山口国男 - 国持一洋の関東勢の4番手という絶好の位置に中野がつけながらも、その外になんと緒方浩一が覆いかぶさってきた。この動きを見た矢村は緒方に「引け!」と声を出したが、ペースが上がっている最中なだけに緒方も引くに引けなかった。結局中野は「同士討ち」の形で4番手のまま出るに出られずまさかの4着敗退。優勝は逃げ切った吉井にさらわれた。 当時、山口国男が中心となってフラワーラインが形成されつつあった。打倒!中野を合言葉に結成された、いわば「超党派」のようなライングループであったが、この一戦ではラインが手薄だったにもかかわらず、吉井に逃げ切りを許したことでより一層フラワーラインを活気付けた形となった。 6人も九州勢がいながら、表彰台に上がったのは2着の堤昌彦(福岡)だけであった。この惨憺たる結果に対し、矢村は今こそ九州は一つにまとまらねばならないと強く訴えた。そこで矢村は後に、緒方を参謀役に据え、フラワーラインに対抗する「九州軍団」を結成させることを考えるが、実質的には「中野シンパライン」といったものであった。この案に対して九州勢内部からは反発の声が上がったが、それでも矢村は、九州の中心は中野であるということを強調した。既に中野シンパだった高橋健二や久保千代志に加え、藤巻昇も中野に味方するようになったが、肝心の九州は未だにまとまりが悪かった。ひいては将来、中野が九州を見捨てかねないと矢村は考え、また中野は超党派で他地区の味方の選手を引き入れていることを示し、今度は九州がそうするべきではないかと訴えた。すると、後に井上茂徳が頭角をあらわしはじめると、フラワーラインに伍して戦える「九州軍団」が出来上がった。上述の通り、その参謀には緒方が就く形となったが、この軍団を形成した実質的な立役者は矢村である。
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