「フレー」の起源・由来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 09:32 UTC 版)
「エール (応援)」の記事における「「フレー」の起源・由来」の解説
明治38年春に早稲田大学野球部が日本人としては初の海外遠征を敢行した際に、現地のアメリカ人が行っていたものを取り入れたことに由来する。帰国後に選手らを引率した安部磯雄が大学の寄宿舎生らに紹介し、その年の秋の早慶戦第三回戦で早稲田大学によってはじめて行われた。これを翌明治39年に慶應義塾が模倣し、以降、当時の早大応援隊長・吉岡信敬によって各地の学校へ伝えられ、次第に広まっていった。 当初取り入れられたアメリカ式の応援法は、単に全員でエールを唱えるものではなく、応援学生らがリーダーの指揮に従ってお揃いのカレッジフラッグを手に、声を合わせてエールを高唱する、というものである。この手法は当時、「団体組織の応援」「団体的応援」など、後年には「科学的応援」「合唱的応援」「科学的団体応援」などと表現され、日本における応援文化の礎となった。 明治38年秋の早慶戦で初めて行われたカレッジエールは「フレーフレー早稲田」だけではなく、「フレーフレーフレー早稲田」、「チェヤース、ラ、ラ、ラ、早稲田」などのエールも行われていた。突如行われたこれらの応援は新聞や雑誌などに次のように報じられた。 『試合前、早軍は先に渡米してスタンフォード大学と試合の折、彼の地にて応援者の用ひたるW・Uの二字を現はせる海老茶色の三角形の小旗持ちたる数十人の応援者、坂の途中に陣して盛んに声援しつつ味方を励まし居たりき。』 『応援の声囂々として暫くは鳴りも止まず、フレー早稲田のチェヤースララ早稲田のカレーヂエールは天彪の一時に咆ゆるが如く早軍悠々として陣をとる(中略)第三回には思ひも掛けぬ応援旗を作り荘厳なるカレーヂエールを呼号し慶軍の彌治為めに顔色を失ひたるは、近頃快心とする応援振りなりし。』 『第一戦。早軍は勇壮なる、カレーヂ、エールと共に先づ攻勢を取る。(中略)雷の如き歓呼の叫びと、勇壮なる早稲田のカレーヂ、エールとは、天も裂けよと許りに呼號せられ、数千の彌治は、悉く選手を胴上げして、此快絶壮絶の勝利を祝し合へり。』
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