"A-Bomb Kid"
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/07 23:29 UTC 版)
「ジョン・フィリップス (企業家)」の記事における「"A-Bomb Kid"」の解説
フィリップスは1954年か1955年にギリシャ移民の子として生まれた。プリンストン大学の学部3年生として在学中の1977年に、公的に利用可能な本 (ジョン・マックフィーの『原爆は誰でも作れる』など) と書類(ロスアラモス研究所で行われたマンハッタン計画に関する機密解除された公的書類など)を使用することで核兵器を設計したことからA-Bomb Kidとして名を知られるようになった。 フィリップスは、成績の冴えないプリンストン大学の学生であった。学校に残るために彼は、第二次世界大戦でアメリカが長崎市に投下したのと同タイプの原子爆弾(爆縮方式のプルトニウム原爆、詳しくはファットマンを参照のこと)の設計図の概説を、核兵器の拡散に関するセミナーの期末レポートとして提出した。高名な物理学者であり彼の指導教官であったフリーマン・ダイソンおよびセミナーの主催者であったハロルド・ファイブソン (Harold Feiveson) 教授によると、フィリップスの設計は実用に耐えるものではなかったが、フリーマン・ダイソンはこのレポートにA判定を与えた後で、フィリップスにレポートを燃やすように言ったという。 しかしながら、この話が誇張された形で広く流布された結果として、フィリップスはパキスタンの大使館補佐を名乗る人物の接近を受け、追い回される羽目になった。最終的にはアメリカ連邦捜査局により寮で作成した実物模型と期末レポートを押収されたため、設計図は渡らなかった。翌1978年、フィリップスは共著者デヴィッド・マイケリス (David Michaelis) と共にこの事件の顛末をMushroom: The True Story of the A-Bomb Kid (ISBN 0-671-82731-6 / ISBN 0-688-03351-2)として出版した。 なお、同書の日本語翻訳版がアンヴィエル社より『ホームメイド原爆──原爆を設計した学生の手記』として、1980年に出版されている。
※この「"A-Bomb Kid"」の解説は、「ジョン・フィリップス (企業家)」の解説の一部です。
「"A-Bomb Kid"」を含む「ジョン・フィリップス (企業家)」の記事については、「ジョン・フィリップス (企業家)」の概要を参照ください。
- "A-Bomb Kid"のページへのリンク